第22話 報告
翌朝。
いつものように朝の訓練が終わる。
部下たちは汗を拭きながら、それぞれの持ち場へ向かっていく。
郁だけは、その場から動けなかった。
「……」
胸が苦しい。
昨日の光景が何度も頭をよぎる。
笑っていたニコ。
裏門。
封筒。
そして――。
『……嘘でしょ』
あの言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
郁は拳をぎゅっと握った。
(勘違いであってほしい)
(お願いだから)
小さく息を吸い込み、ノアのもとへ向かった。
「ノアさん」
ノアは部下へ指示を出していたが、郁を見ると振り返った。
「どうした」
郁は言葉に詰まる。
「その……」
唇が震える。
何度も言葉を飲み込んだ。
ノアはそんな郁を見て、小さく眉をひそめる。
「……大事な話か?」
郁はゆっくり頷いた。
「はい」
「でも……」
視線を落とす。
「確証はありません」
「私の勘違いかもしれません」
「だから……」
「絶対とは言えないんです」
ノアは少しだけ驚いた。
(郁が……)
(こんなに歯切れが悪いのは珍しい)
普段の郁なら、
「分かりました」
「やってみます」
はっきり答える。
迷う姿など見たことがなかった。
ノアは静かに言った。
「ここでは話しづらいな」
「個室へ行く」
「……はい」
二人はノアの部屋へ入った。
扉が閉まる。
郁は昨夜見たことを、一つひとつ話した。
市場のこと。
初任務の待ち伏せ。
書類の紛失。
訓練予定表。
レオンの朝礼。
ノートを見返したこと。
そして。
昨夜、裏門で見た光景。
全部話し終える頃には、郁の手は少し震えていた。
「……以上です」
「でも」
「全部、偶然かもしれません」
「私の思い違いかもしれません」
「だから……」
「ニコが裏切ってるなんて、私も信じたくありません」
部屋が静かになる。
ノアは何も言わない。
しばらく黙ったまま考え込む。
やがて、大きく息を吐いた。
額へ手を当てる。
「……ニコが?」
苦しそうな声だった。
「そんなはずはない」
そう言いたい。
でも。
郁が話した内容は、どれも筋が通っていた。
ノアはゆっくり顔を上げる。
「……レオンも呼ぼう」
「一人で判断できる話じゃない」
数分後。
レオンが部屋へ入ってきた。
「どうしたの?」
いつもの穏やかな笑顔。
けれど、ノアの表情を見ると、その笑顔はすぐに消えた。
「……何かあった?」
ノアは短く答える。
「郁から報告だ」
「聞いてほしい」
レオンは郁へ視線を向ける。
「郁」
「話して」
郁はもう一度、最初から最後まで説明した。
途中で言葉に詰まりながらも、全部。
隠さず話した。
話し終えると、部屋は静まり返った。
レオンは目を閉じる。
ノアも腕を組んだまま動かない。
長い沈黙だった。
やがてレオンが、小さく笑った。
でも、その笑顔はとても苦しそうだった。
「……信じたくないね」
ノアも静かに頷く。
「ああ」
「ニコがそんなことをするとは思えない」
レオンは机へ視線を落とした。
「でも」
「これだけの情報が揃ってしまうと」
「見過ごすわけにはいかない」
その声には、迷いが滲んでいた。
レオンは郁を見る。
「一つ聞いていい?」
「はい」
「郁は」
「いつ怪しいと思ったの?」
郁は少し考え、小さく答えた。
「……ボスが」
「朝礼で、情報が漏れている可能性があるって話した日です」
「そのあと」
「ノートを見返しました」
そう言って、持ってきたノートを差し出す。
レオンはページをめくる。
訓練。
仕事。
市場。
小さなメモ。
几帳面な字で、毎日が記録されていた。
ノアも隣から覗き込む。
そして、小さく笑う。
「……さすがだな」
郁は首を横に振った。
「違います」
「気付かなければ良かったって……」
その一言に。
レオンもノアも、何も返せなかった。
レオンは静かにノートを閉じた。
部屋には重い沈黙が流れる。
誰もすぐには口を開かなかった。
郁の中で張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「……っ」
必死に堪えようとする。
唇を噛む。
涙だけは見せまいと顔を伏せる。
でも。
ぽたり。
ぽたり。
膝の上へ涙が落ちた。
「ご、ごめんなさい……」
「私……」
「違っていてほしかったんです……」
「ずっと……」
「勘違いであってほしいって……」
言葉にならない。
肩が震える。
ノアは何も言わず、郁の隣へ歩み寄った。
大きな手が、そっと頭へ置かれる。
ぽん、と一度だけ。
優しく。
「……」
その温もりに、郁はさらに涙をこぼした。
レオンも静かに立ち上がる。
郁の肩へ、そっと手を添えた。
「郁」
優しい声だった。
「ありがとう」
「本当は」
「こんな報告、したくなかったよね」
郁は何度も頷く。
涙が止まらなかった。
レオンはノアを見る。
ノアも静かにレオンを見返す。
二人だけで通じるものがあった。
レオンはゆっくりと郁へ向き直る。
「これは」
「見過ごすことはできない」
「ボスとして」
一拍置く。
「そして」
「上司として」
「ニコ本人から理由を聞かなきゃいけない」
郁は涙を拭いながら顔を上げた。
「……理由」
「うん」
レオンは優しく微笑む。
「もし」
「理由があるなら」
「まだ救ってあげられるかもしれない」
「だから」
「最初から責めるつもりはない」
「話を聞く」
「全部」
その言葉に。
郁は少しだけ肩の力が抜けた。
(……すぐには)
(殺されない)
その事実だけで、胸が少し軽くなる。
レオンは静かに続けた。
「準備ができたら」
「郁も呼ぶ」
「それまではここで少し休んでいて」
「……はい」
郁は小さく返事をした。
レオンとノアは部屋を後にする。
扉が静かに閉まった。
――――――
廊下。
二人は無言のまま歩く。
向かう先は会議室。
幹部たちはすでに集まり始めていた。
マルコが二人を見る。
「何かあった?」
レオンは静かに答えた。
「……報告がある」
その声だけで、空気が変わる。
ヴィクトルの表情が引き締まる。
ルカも静かに顔を上げた。
ノアが全員を見渡す。
「情報漏洩の件だ」
「容疑者が一人いる」
部屋が静まり返る。
レオンはゆっくりと言った。
「……ニコ・ロッシだ」
「!」
マルコが立ち上がる。
「嘘だろ……」
ヴィクトルも息を呑む。
「何かの間違いでは……」
ルカは黙ったまま俯いた。
誰も信じられなかった。
レオンは郁から預かったノートを机へ置く。
「まだ決まったわけじゃない」
「だから本人から話を聞く」
「理由があるなら」
「助けられる方法を考えたい」
その言葉に。
誰も反対しなかった。
長い沈黙のあと。
ノアが静かに口を開く。
「……もし」
一度、目を閉じる。
そして覚悟を決めたようにレオンを見る。
「もしもの時は」
「俺がやる」
部屋が静まり返る。
レオンは何も答えない。
ただ、小さく頷いた。
その頷きは。
ボスとしてではなく。
長年、共に歩いてきた仲間への返事だった。




