第16話 休日
ヴィンチェンティ・ファミリーへ来て、四か月あまり。
その日、郁は初めての休日を迎えた。
朝食を終えた食堂では、珍しく訓練の号令も聞こえない。
「休みって落ち着かねぇな」
ニコはソファへ寝転びながら笑う。
郁は少し苦笑した。
「何をしたらいいか分からない」
「だろ?」
ニコは立ち上がる。
「俺、ちょっと外出してくる!」
「友達と約束あるんだ」
「夕方には戻るから!」
「気を付けて」
「おう!」
ニコは手を振りながら屋敷を出て行った。
部屋には郁一人。
「……」
何をしよう。
本でも読もうか。
そう思い、廊下へ出る。
すると向こうからルカが歩いてきた。
手には小さな紙袋。
「……」
郁に気付き、小さく会釈する。
「おはようございます」
「……おはよう」
二人は最近、一緒に仕事をする機会が増えていた。
コードを書く時間。
静かな部屋。
必要なことだけ話す。
不思議と、その空気は嫌いではなかった。
郁は紙袋へ視線を向ける。
「ルカさん」
「お出掛けですか?」
「……うん」
短く頷く。
「一緒に行く?」
郁は少し驚いた。
「え?」
「どこへですか?」
ルカは当たり前のように答える。
「孤児院」
「……孤児院?」
「俺」
「孤児院出身だから」
「たまに帰る」
郁は目を丸くした。
ルカはそのまま続ける。
「子どもたち」
「会いたがってる」
「……行く?」
郁は少し考えてから笑った。
「はい」
「ご一緒してもいいですか?」
ルカは小さく頷いた。
「うん」
「じゃあ」
「行こう」
――――――
一軒の古い孤児院へ到着した。
門をくぐった瞬間だった。
「ルカー!!」
子どもたちが一斉に駆け寄ってくる。
ルカは少し困ったように笑いながら、一人ひとりの頭を優しく撫でた。
「……ただいま」
その柔らかな表情に、郁は思わず目を丸くする。
(こんな顔もするんだ)
奥から年配の女性が歩いてきた。
「ルカ、おかえり」
「元気そうね」
「……うん」
ルカは持ってきた紙袋を差し出す。
「寄付」
シスターは慣れたように受け取り、優しく微笑んだ。
「いつも本当にありがとう」
「毎月助かっているわ」
郁は思わずルカを見る。
(毎月……?)
ルカは何でもないことのように頷くだけだった。
自分から話す様子もない。
子どもたちも、シスターも、それが当たり前のように受け取っている。
(知らなかった)
(ルカさん……毎月ここへ来てるんだ)
その様子を見ているうちに、郁の胸へ一つの思いが浮かぶ。
(この人たちは……)
(人を助けることもしている)
マフィア。
最初は怖い人たちだと思っていた。
けれど、料理を囲んで笑い合い。
仲間を大切にして。
そして今は、孤児院を支えている。
(本当に、不思議な人たちだ)
ルカはシスターへ尋ねた。
「困ってることある?」
シスターは首を横に振る。
「いつもあなたたちに支えてもらっているから、大丈夫よ」
少し考えてから、困ったように笑う。
「あ……でもね」
「業者さんがなかなか来てくれなくて」
「倉庫が雨漏りしているの」
「直せるといいんだけど」
ルカは倉庫を見上げた。
「……」
少しだけ表情が曇る。
郁はその横顔を見て、何となく察した。
「ルカさん」
「高いところ、苦手ですか?」
ルカは少し恥ずかしそうに頷いた。
「……うん」
郁は思わず笑う。
「私がやります」
「日曜大工程度ならできます」
「父の手伝いで、よくやっていたので」
「工具、お借りできますか?」
一時間後。
郁は屋根の上で器用に木材を打ち付けていた。
金槌の音が軽快に響く。
子どもたちは下から見上げている。
「すごーい!」
「お兄ちゃんすげぇ!」
「落ちないでねー!」
郁は笑って手を振る。
「大丈夫」
「もう少しだから」
最後の板を固定し、屋根から降りる。
「終わりました」
シスターは目を丸くした。
「まあ!」
「こんなにきれいに……!」
「ありがとうございます!」
子どもたちも大喜びだった。
「ありがとう!」
「お兄ちゃん!」
小さな子が郁へ抱きつく。
郁は少し照れながら笑った。
「どういたしまして」
気付けば鬼ごっこが始まり、郁も子どもたちに引っ張られて走り回る。
笑い声が庭いっぱいに広がる。
その光景を見ながら、ルカは小さく笑った。
帰る時間になると、子どもたちは名残惜しそうに手を振った。
「ルカー!」
「また来てね!」
「お兄ちゃんも!」
郁も笑顔で手を振り返す。
「うん」
「また来るね」
その言葉に、子どもたちは嬉しそうに笑った。
――――――
帰り道。
夕日に染まる道を車が走る。
運転席のルカが、ぽつりと口を開いた。
「俺」
「孤児だった」
郁は静かに耳を傾ける。
「頭が良かった」
「だから」
「友達できなかった」
「ずっと」
「一人」
短い言葉。
でも、その寂しさは十分伝わってきた。
「ボスが」
「居場所くれた」
ルカの口元が少しだけ緩む。
「だから」
「尊敬してる」
少し沈黙が流れる。
郁は窓の外を見ながら、小さく尋ねた。
「ルカさん」
「どうして毎月、孤児院へ行くんですか?」
ルカは少しだけ考えた。
そして静かに答える。
「俺も」
「助けてもらったから」
郁は黙って聞いている。
ルカは前を向いたまま続けた。
「今度は」
「俺が返す番」
その一言は、とても静かだった。
でも、迷いはなかった。
郁はその横顔を見つめ、小さく笑う。
「……素敵ですね」
ルカは少し照れたように視線を逸らす。
そして、小さな声で続けた。
「郁も」
「話が通じる」
「一緒にいると」
「嬉しい」
郁は少し驚く。
ルカはハンドルを握ったまま、小さく笑った。
「はじめて」
「友達できたみたい」
郁の表情が、ふっと柔らかくなる。
「私もです」
「友達」
「すごく嬉しいです」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
窓の外には、夕焼けに染まる街並みがゆっくりと流れていく。
その帰り道は、行きよりも少しだけ温かく感じられた。
――――――
屋敷へ戻り、夕食を終えた後。
郁は一人、自分の部屋にいた。
クローゼットの棚から、黒いリュックを下ろす。
ファスナーを開け、一番奥へ手を伸ばした。
柔らかいタオルに包まれた、四角いかたまり。
膝の上で、そっと包みを開く。
冷たいスマートフォンが、静かにそこにあった。
あの夜から、画面は一度も灯っていない。
(……)
郁はしばらく、暗い画面を見つめていた。
夕方の車内で聞いた、ルカの声を思い出す。
――俺も、助けてもらったから。
――今度は、俺が返す番。
(私も)
この機械には、十分すぎるほど助けてもらった。
三日間、毎晩そばにいてくれた。
家族の顔を、覚えているうちに焼き付けさせてくれた。
(このまま、しまっておくこともできるけど)
リュックの奥で眠らせておいても、写真が戻るわけではない。
でも。
あの人の手の中でなら。
この機械は、まだ何かになれるのかもしれない。
初日に見た、ルカの作業机が頭に浮かぶ。
壊すためではなく、理解するための分解。
(……うん)
郁はスマートフォンをタオルごと包み直し、静かに立ち上がった。
――――――
コンコン。
「……どうぞ」
扉を開けると、ルカはいつものようにモニターの前にいた。
振り返り、郁だと分かると、少しだけ目を見開く。
「……郁」
「夜分にすみません」
郁は部屋へ入り、ルカの前に立った。
そして、両手で包みを差し出す。
「これ」
ルカは包みを見て、それから郁を見た。
「……?」
「スマートフォンです」
ルカの手が、わずかに止まった。
郁は静かに続ける。
「電源がつかなくなってしまったんですけど」
「それでもよければ、いりますか?」
部屋が静まり返る。
ルカは包みを受け取らないまま、じっと郁を見つめた。
「……いいの?」
「はい」
「大切なもの」
短い言葉だった。
けれど、ルカがちゃんと覚えていてくれたことが、郁には分かった。
初日、ボスが言った言葉。
大事なんでしょ、と。
「大切なものです」
郁は頷く。
「今でも」
「でも、もう画面は見られません」
「私がリュックの奥にしまっておいても、ただ眠らせておくだけなので」
一度、言葉を切る。
「ルカさんなら」
「ただの壊れた機械のままには、しないでくれる気がして」
ルカは数秒、黙っていた。
やがて、両手をゆっくりと差し出す。
郁はその手の上へ、包みをそっと乗せた。
ルカはタオルを丁寧に開き、中のスマートフォンを確かめる。
扱う手つきは、壊れ物に触れるように慎重だった。
「……直せるかは、分からない」
正直な言葉だった。
「電源も、入るようにできないかもしれない」
「はい」
「でも」
ルカは顔を上げ、まっすぐ郁を見た。
「絶対、無駄にしない」
「調べて、理解する」
「……いつか」
一拍、間が空く。
「返せるものにして、返す」
郁は目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑う。
「……はい」
「お願いします」
ルカは頷き、スマートフォンを再びタオルで包んだ。
そして、作業机の一番いい場所へ、そっと置く。
分解された機械たちの中で、そこだけが特別な席のようだった。
「郁」
「はい」
「……ありがとう」
「友達を」
「信じてくれて」
郁は少し照れたように笑った。
「こちらこそ」
ルカは少し考えるように間を置いて、続けた。
「あと」
「はい?」
「“さん”、いらない」
郁は目を瞬かせる。
「友達」
「だから」
当たり前のように、ルカは言った。
その言い方が、いつかのニコと少し似ていて、郁は思わず笑ってしまう。
「じゃあ……」
少しだけ躊躇ってから、口を開く。
「ルカ」
呼び慣れない響きが、少しだけ照れくさい。
ルカは満足そうに、小さく頷いた。
「ん」
「おやすみなさい、ルカ」
「……おやすみ」
郁は静かに部屋を出た。
――――――
自分の部屋へ戻ると、先に帰っていたニコがベッドで雑誌をめくっていた。
「お、どこ行ってたんだ?」
「ルカのところ」
「休みの日まで仕事かよ」
「違うよ」
郁は笑って、自分のベッドへ腰を下ろす。
「預けたいものがあっただけ」
「ふーん?」
ニコは深く聞かず、雑誌へ視線を戻した。
郁はクローゼットの棚を見る。
リュックの奥は、少しだけ軽くなった。
それでも、何も失っていない。
母の笑顔も。
父の仏頂面も。
あの家の夕食も。
全部、ちゃんと覚えている。
(いつか、って言ってくれた)
いつになるかは分からない。
戻らないかもしれない。
それでも、あの機械は今夜から、眠るのをやめて、誰かの手の中にある。
(……それで、いい)
郁は毛布を引き上げ、静かに目を閉じた。
初めての休日は、思っていたよりもずっと、大切な一日になった。




