第13話 立ち止まる夜
ある夜。
郁は、静かな廊下を歩いていた。
シャワーを浴び、部屋へ戻る。
ベッドではニコが気持ちよさそうに眠っていた。
「……」
郁は小さく笑い、起こさないよう静かに椅子へ腰掛ける。
今日は珍しく予定がない。
自主練も終わった。
ノートも書いた。
やることが、ない。
「……」
ぼんやり窓の外を見る。
その瞬間だった。
頭の中に、一つの景色が浮かぶ。
大学へ向かう通学路。
朝の駅。
コンビニ。
友達と笑いながら歩いた帰り道。
母が作る夕飯。
仕事から帰ってきた父との何気ない会話。
当たり前だった毎日。
もう二度と帰れない日常。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(……帰りたい)
その言葉が、初めて心に浮かんだ。
けれど、すぐに首を横へ振る。
(帰れない)
もう死んだ。
それだけは分かっている。
この世界へ来て、もう三か月。
気付けば、季節がひとつ進んでいた。
考える暇なんてなかった。
レオンの前へ突然現れ。
銃を向けられ。
生きるために必死で頭を回した。
ノアの訓練。
ヴィクトルの仕事。
マルコとのチェス。
ルカとのプログラム。
料理。
自主練習。
毎日、やることがあった。
いや。
自分で作っていたのかもしれない。
立ち止まれば。
全部思い出してしまうから。
だから考える前に動いた。
動いていれば、少しだけ忘れられた。
「……」
静かな部屋が、今日は少しだけ苦しかった。
郁は立ち上がる。
このまま部屋にいたら、眠れそうになかった。
音を立てないよう部屋を出る。
屋敷の廊下を歩いていると、一部屋だけ明かりが漏れている場所があった。
図書室。
先客がいるのは珍しい。
郁は少しだけ覗いてみることにした。
「……失礼します」
扉を開けると、本棚に囲まれた部屋で、一人の青年が本を読んでいた。
「あ」
レオンが顔を上げる。
「郁」
「眠れない?」
郁は少し困ったように笑った。
「はい」
「少しだけ」
「そっか」
レオンは優しく微笑む。
郁はそのまま一冊手に取り、椅子へ座る。
レオンも何も言わず、本へ視線を戻した。
静かな時間が流れる。
ページをめくる音だけが響く。
しかし。
レオンはふと違和感を覚えた。
(……)
(今日はページが進んでない)
郁は本を開いている。
なのに、さっきからほとんどページをめくっていなかった。
考え事をしている。
レオンは本を閉じた。
「郁」
「はい」
「疲れた?」
郁は少し笑う。
「少しだけ」
「最近、頑張りすぎじゃない?」
その言葉に、郁は黙り込む。
答えを探すように、本へ視線を落とした。
しばらくして、小さく口を開く。
「……止まると」
レオンは何も言わず待つ。
「いろいろ考えてしまうので」
短い一言だった。
何を考えるのか。
何があったのか。
レオンには分からない。
でも。
その言葉だけで十分だった。
郁が何かを抱えていることだけは伝わる。
レオンは静かに微笑んだ。
「無理に話さなくていいよ」
郁は少し驚いたように顔を上げる。
「話したくなったら」
「その時に聞くから」
郁は目を丸くした。
理由を聞かれなかった。
何があったのかも。
どうして眠れないのかも。
何も。
それが、少しだけ嬉しかった。
「……ありがとうございます」
声は少しだけ震えていた。
レオンはそれ以上何も聞かなかった。
代わりに立ち上がり、本棚へ向かう。
「そうだ」
「コーヒーでも飲む?」
郁は思わず笑う。
「こんな時間にですか?」
「眠れない仲間同士だからね」
「ふふ」
小さく笑い声が漏れる。
さっきまで胸を締め付けていた苦しさが、少しだけ軽くなった気がした。
レオンはそんな郁を見て、心の中で静かに思う。
(郁は……)
(頑張りすぎる子なんだな)
理由はまだ分からない。
聞くつもりもない。
でも、一つだけ決めた。
この子が、自分から話せる日が来るまで待とう。
それでいい。
今は、それで十分だった。




