三十五歳無職、救護院で最弱になる
水瓶をえっちらおっちらと、フラフラになりながらとある場所へと持っていく。
そこは厨と呼ばれる、かまどなどが置かれている台所だ。実家の寺を思い出させる響きだが、そんな感傷に浸る余裕はない。俺はそこに置かれている、二つある内の空の大きな瓶に水をドボドボと入れる。
「……何杯汲めば良いんだ、これ?」
瓶の底にほんの少しだけ貯まった水を見て、ため息が出る。俺はこれを満杯にしなきゃいけないんだが、早くも心が折れそうだ。
「……しかしなぁ」
辺りを見回すと、俺より十も二十も若い子供たちが、朝も早くから文句ひとつ言わずに働いている。そこにいい大人である俺が駄々をこねるのは、流石に大人げない気がしてならない。
さて、いい加減ここが何処だか知りたいというか、説明しておかないと話が進まないだろう。
ここは『救護院』と呼ばれる孤児院だ。親を亡くし、行き場を失った子供たちのための施設である。
……そう、子供たちのための施設。いい歳したオッサンが本来いてはならん場所なんだが、あの筋肉兵士の人が掛け合ってくれて、特別に許可を貰ったらしい。
「らしい」というのは、もし問題があれば即座に叩き出される可能性もあるということだ。
初めて俺がこの救護院を管理している婆さんに会った時は、まあ、絵に描いたような怪訝な目を向けられた。
「俺は犯罪もなにも犯しちゃいねえよ、ただのニートで引きこもりだ」と言ってやったが……自分で言っていて悲しくなるな、おい。
そんな俺に返ってきた言葉は、「真面目に働きな、穀潰しが」であった。
そりゃそうなんだけどよ、それが出来たら苦労はしねぇんだよ、くそ婆――と、口が滑ったのが運の尽き。
婆さんの拳が風を切ったと思った瞬間、俺の意識は綺麗にブラックアウトした。気がつきゃ、あの固いベッドに寝かされていた。あのババア、絶対に元凄腕の冒険者か何かだろ。大人を一撃で昏倒って。
一応、その後で聞いた話では、「半年だけは居させてやる」と婆さんが言ってくれた。
ただし、ここに居たけりゃ働け、でなきゃ出て行け、と。
だから俺はいやでも働いている。いまここで一生懸命働いている子供たちより、圧倒的に役に立たずに、ハァハァと息を切らしている俺ではありますがね。
周りの子供たちが小さな体でせっせと立ち働く中、俺はひたすら井戸と厨の間を往復していた。
一体、何往復したのだろう。三回目までは数えていたが、それ以降は脳みそが思考を放棄した。とにかく、いっぱい往復した。それしか言えない。
すれ違いざま、俺の半分ほどの身長しかない小さな子供から、無垢で純粋な、それゆえに鋭利な言葉が飛んでくる。
「ねえ、おっちゃん。いつまで掛かってるの?」
悪気のない、純度百パーセントの疑問。それが、ハァハァと情けない息を吐きながら這うように歩く三十五歳無職の心にぶ刺さる。
ちょっと、本気で泣けてきていた。十年引きこもっていたツケが、今まさに両腕の両足の筋肉痛、そして精神的屈辱として一気に押し寄せてきている。
どうにかこうにか、執念で大きな瓶に水をいっぱいにする頃には、窓の戸板の隙間から眩しい日の光が差し込み、すっかり日が昇っていた。
「ハァ、ハァ、き、きつい……」
限界だった。膝のガクガクとした震えが止まらない。俺は空になった木桶を床に放り出し、たった今満杯にしたばかりの瓶にもたれ掛かるようにして、その場にずるずると崩れ落ちた。
心臓が早鐘のように鳴り響き、肺が酸素を求めて引き攣る。
そんな屍同然の俺を、容赦のない子供たちの声が急かしてくる。
「おっちゃん、早く早く! 食事の時間だよ!」
「遅れると院長先生に怒られちゃうよ!」
飯。その響きだけを心の支えにして、俺はプルプルと生まれたての小鹿のように震える足に力を込め、どうにか立ち上がった。そして、スタスタと小気味よく歩いていく子供たちの後ろを、泥のような足取りでついていく。
連れて行かれたのは、ちょっと広い、お寺の本堂や講堂を思わせるような広間だった。
板張りの床には、等間隔に小さな膳が並べられている。その一つ一つに子供たちが慣れた動作できちんと座っていく。
そして、その空間の上座には、えっらそうに法衣のような仕立ての衣服を着込んだ婆さんが、大座を組んでドッカリと座っていた。俺を一撃で沈めた、あのクソ婆である。
あまりの威圧感に、俺が部屋の入り口で呆然と突っ立っていると、婆さんは鋭い眼光でこちらをピシャリと一睨みした。
「さっさと座りな。ガキどもが食えないじゃないか」
低く、よく通る声。どうやらこれは子供たちの躾のようだった。全員が席に揃って、全員で同時に食べるという厳格な習慣でもあるのだろう。俺のせいで子供たちの飯がお預けになっているのだと察し、慌てて空いている膳の前に這いつくばるようにして腰を下ろした。
膳の上に並んでいる質素な食事を前に、生唾を飲み込もうとした、その時。
上座の婆さんが、突然、朗々とした声で念仏のような言葉を発しだした。
「天の精人、アマテル。月の精人、ヨシロ。火の精人、カグチ。水の精人、ミズハ。風の精人、カムラ。地の精人、イワクラ───」
その声に合わせるように、子供たちが一斉に『合掌印』──いわゆる、手のひらをぴったりと合わせた印を胸の前で組む。
並べられた神々の名前は、日本の神話に出てくる神々にどこか似ている気がしたが、考える余裕はない。どうやらこの世界にも、地球の「いただきます」に類するような、神仏や自然への感謝、そして礼の作法があるようだった。
怒られたくない俺も、見よう見まねで慌てて手を合わせ、頭を下げる。
婆さんの朗唱が、締めくくりの言葉へと向かう。
「───我らに日々の糧に感謝を、ウサイ・カダイ」
ワンテンポ遅れて、子供たちの揃った声が広間に厳かに響き渡った。
「「「「感謝を、ウサイ・カダイ」」」」




