怠惰という名の勤勉を、ドブに投げ捨てる時」
俺はとにかく、一刻も早く、何が何でも『空』か『甲』の意念をマスターせねばならん。
しなければ、しなければ……俺の貧弱な命は、そう遠くない未来に確実に尽きる……ッ!
なぜなら──。
「イチロウさん、お仕事お疲れ様です。もし良ければ、今日もお弁当を作ってきたんですが……いかがですか?(清楚ボイス)」
「あざーすっ! 喜んでいただきます! ……もぐもぐ、うま、うまうまうまうッ!!」
悔しい。めちゃくちゃ悔しいが、エリシアの作ってくるお弁当はガチで旨い。マジの神クオリティで旨いのだ。
普段、救護院で食べているあの「緑と茶色がカオスに融合したドロドロの雑炊」とは、天と地、いや月とスッポン、あるいはニートと国家主席ほどの圧倒的な格差がある。口に運ぶ手がどうしても止められない、止められない。
そんな俺が旨そうに弁当を貪る様子を、救護院の子供たちが「いいなぁ……」と羨ましそうに遠巻きに眺めていると、
「あら、みんなもお腹が空いているんですか? 大丈夫ですよ、皆さんの分もたくさん作ってありますから、一緒に食べてくださいね。ふしゅるるるるる……」
二メートルの巨体をギチギチと震わせ、顔中に満面の笑みを浮かべるエリシアさん。
……うん、笑顔。笑顔なんだよな、あれ?
どう贔屓目に見ても、今から『オレ、オマエ、マルカジリ』とか雄叫びを上げて子供たちを頭から貪り食いそうな、世紀末の魔獣の雰囲気を醸し出しているようにしか見えないのだが……。
だが、そんな俺の心配は全くの杞憂だった。
異世界の過酷な環境で生きる子供たちのメンタルは、俺なんかより遥かに強かだった。あいつら、見た目の覇王感なんて一ミリも気にしてねぇ。ただ「目の前にある旨いもの」が食べられれば、相手が怪獣だろうが覇王だろうが何でも良いみたいだ。おいおい、野生の適応力高すぎだろ。
「ふぅ……ごちそうさまでした。ガチで旨かったです、エリシアさん」
「ふふ、今回もお口に合って良かったです、イチロウさん」
子供たちと一緒に胃袋を完璧に掴まれた俺が、空になった弁当箱を彼女へと手渡す。──そう、ここまではただの微笑ましいハートフルな日常の一コマだ。
問題は、この後である。
「はい、これお弁当箱です」と差し出した俺の手を、エリシアさんは「まぁ、ありがとうございます」と、いつものように嬉しそうに両手で優しく包み込んで──。
ギチギチギチメキメキメキッッッ!!!
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!! やめて! マジでやめてぇえええッッ!! 悪気がないのは知ってるけどリアルに激痛なんだってば! 折れる! 熊の骨より脆い俺の繊細なお手々が、ポッキリ綺麗に音を立てて折れちゃうぅううううおのれぇええええッッッ!!!)
「では、お邪魔しました。イチロウさん、明日もまた心を込めて作ってきますね。ふしゅるるる……」
嵐のような大質量を誇る怪物は、そう言い残して可憐に去っていった。……俺の右手が、まるで茹で上がったカニのように赤々と腫れ上がった凄惨な状態だけを残して。
「なぁおっさん、おっさんのお陰で俺たち毎日こんな旨いものが食えるようになったよ。あんがとな!」
「うるせぇ! 俺はそのお陰で毎日骨折の危機と隣り合わせの死ぬ思いをしてるんだよコンチクショウがぁあああッッ!!」
不味い。非常に不味いですのことよ。
外堀(子供たち)が完全にエリシアさんの極上お弁当によって埋め尽くされている。このままでは遠からず、俺は確実に彼女に仕留め(結婚)させられる未来へ一直線だ。
あんな世紀末覇王と四六時中一緒にいたら、俺の命が、いやたとえ不死身の力を手にしたとしても、精神と肉体が耐えきれずに消滅してしまう!
『空』でも『甲』でも良い、早く! 一刻も早くマスターするんだ、俺!
そのためだったら、今だけは限界を超えろ! 三十五年間、我が魂の拠り所としてきた『怠惰という名の勤勉』を、今日この時だけはドブに投げ捨てるんだ──!!
「ぬおぉおおおおおおおっッッ!!! 爆ぜろ! 悪夢! 弾けろ! 俺の脳細胞! 悪霊退散……ナウマクサンマンダーバザラダン・オンテキ・エリシアァアアアアアッッッ!!!」
俺は両拳を握り締め、体内の意念の力を全開にして最大限に発揮させた。
「……おおっ!? なんか今、おっさんの体がピカピカ輝いて見えるぞ!」
「すげえ! でも、おっさんがどれだけ輝いたところで、結局ただのおっさんでしかないな」
「やかましいわちびっ子共ッッ!! これからだ、俺の本当の進化はここから始まるんだよ!」
俺は婆さんが言っていたアドバイスを必死に脳裏に呼び起こす。
ええっと、確か……意念の力を無駄に拡散させずにギュッと抑え込みつつ、自分の体の皮膚、薄皮一枚分の領域にまで超圧縮して凝縮させる……。よし、イメージしろ。俺の皮膚を覆う、薄く、しかしダイヤモンドよりも強固なナノメートル単位の究極の鎧──どうだ、これ──
ゴッッ!!!(鈍い衝撃音)
「あたぁっッ!?!? え、痛い!? 何、後ろから何が飛んできたの!?」
振り返ると、救護院のクソガキどもが、手頃な太さの建築資材用の木材を両手に持ってニヤニヤとニケていた。
「危ないだろうがッッ!! 人に角材を投げてんじゃねぇよ!常識だろうが!」
「えー? だっておっさん、そういう『棒で叩かれる修行があるから手伝っておやり』って院長先生が言ってたぜ? だから俺たち、おっさんの修行を親切に手伝ってやってるんだよ!」
「それは『甲』の修行だけど俺が選んだのはそっちじゃねぇし、それに鉄棒でセルフでやるやつだわ!! やめろ、それを振りかぶるな、投げるなぁあああああッッッ!!!」
「それーーっ!!」「おっさん、もっと輝けーー!!」
子供たちからの一斉を風靡するような容赦のない木材乱投が、俺の全身を無慈悲にドカドカと直撃する。
もちろん、そんな理不尽な集団リンチ状態の中で、俺が繊細な『甲』の意念を集中して覚えることなど出来るはずもなかった。ちくしょう、前途多難すぎるだろ俺の防衛計画!!
──ナム。
それから数時間後。地獄の集中豪雨(木材乱投)を浴び続けた俺は、ついに一つの悟りを開いていた。
いまの俺にとって、子供たちが容赦なく投げつけてくる角材など、もはやそよ風も同然──。
ヒュン。
(──左後方、七時の方角より飛来物接近。速度、仰角、共に凡庸)
俺は背後を振り返ることすらなく、飛んでくる角材の軌道に合わせて左手をそっと添えた。意念の力を受け流しに使い、ほんの数センチだけ斜線をずらす。それだけで、木材は俺の体を綺麗に避けるようにして、そのまま虚空へと通り過ぎていった。
「……ッ! こ、これじゃダメだ! みんな、一斉に投げるんだ!」
「おっさんを包囲しろーっ! かかれーー!」
「とうりゃあーーーっ!!」
俺の超感覚に危機感を覚えたガキ共が、四方八方から一斉に薪や木材を投げつけてくる。凄まじい密度の物理攻撃。
だが! いまの俺にそんな波状攻撃を仕掛けるなど、甘い、甘いと言わざるを得ないッ!!
見よ! 元の世界のバトル漫画の知識と、窮地でバグった俺の脳細胞が手にした、究極の八卦の力をぉおおお!!!
「うおぉおおおおおおおおおおっっっッッッ!!!(大回転)」
「お、おっさんが!! おっさんがもの凄い勢いで回転してるぅううう!?」
「す、すげぇ……!! 無駄な動きに見えるのに、ぜんぶ、全部の薪を完璧に打ち落としてるぞ!?」
「……な、なにもんなんだよ一体!? あのおっさん!? 人の技じゃねぇよぉ!!」
中心に不可視の竜巻を発生させるかの如き大回転を終え、ピシッと静かに立ち止まる俺。
降り注ぐ木材の破片の向こうで、完全に怯えきった目で俺を仰ぎ見る子供たち。フッ、これが大人の、いや「生き残りたいニート」の本気──。
「……うッぷ。ゲロ吐きそう……目が回って酔った……」
胃から逆流してきそうな何かを必死に気合いで飲み込んでいると、
「……あんた、さっき『空』か『甲』の修行をしてくるって言って出て行ったんじゃなかったかい?」
いつの間にか、俺の修行(?)を物陰から覗き見していた婆さんが、心底呆れ果てたような声を投げかけてきた。
俺は腫れ上がった右手を庇いながら、ドヤ顔で胸を張る。
「フッ、見ただろ婆さん。絶体絶命のピンチから、見事に意念を会得してやったじゃん。これがあんたの言ってた『空』ってやつでしょう?」
「……はぁ。あんたねぇ、それは『空』じゃなくて『流』だよ」
「……へ?なが、れ……?」
「『空』の先にある、発展型の技術だよ。なんで基礎もできてない内に、いきなりそっちの応用技を感覚だけで覚えるんだい? 本当に、ワケのわからない規格外な子だねぇ、あんたは」
盛大なため息をつき、おでこを押さえて呆れ顔を見せる鬼婆。
アァレェエエエエエエエッッッ!?!?
ナンデ!?!? ナンデ『空』ジャナイノォオオオッッ!?!?
俺、めちゃくちゃ必死に『空』をイメージして避けてたのに! なんで基礎をすっ飛ばして上位互換の裏ボス技みたいなの覚えちゃってんのぉおおおッッ!!!




