初段階の修行を終えた証
事の起こりは昨日のこと。
俺はクソ婆さんから(物理的かつ強制的に)貸し出される形で、魔狩人衆の屈強な男どもと共に鬱蒼とした森へと狩りに出かけた。
そこで遭遇した、手負いの鹿の魔獣『イモハニガキ』。
俺は三十五年間の人生で培ってきた三十六計逃げるにしかずの精神を発揮し、危ねぇから隠れてろという頭のおっさんの忠告にこれ幸いと従い、老木の陰に身を隠してすべてを前衛のプロたちに丸投げしていたのだ。
──のだが、そこからが不運の神様に愛された男の真骨頂である。
ふと背後から漂ってきた、ドブ川のような生臭い吐息。振り返ったそこに、森の重戦車こと巨大な熊の魔獣『イフガマ』が直立していた時の絶望といったらなかった。
振り下ろされる鋭利な爪。完全に死を確信した俺の脳裏には、走馬灯がこれでもかと高速再生され、「ああ、俺の人生、本当にろくなことがなかったなぁ……」と、なんだか妙に達観した感慨にふけっていた。
だが、そんな諦めモードの俺の『意思』とは裏腹に、俺の『肉体』はまだ生きたい、死んでたまるかと強烈に生を願っていた。
その瞬間だった。
二つの相反する思いが、奇跡的な歯車でガチリとシンクロした。
あれは火事場の馬鹿力なんていう単純な言葉では片付けられない。意念という未知のエネルギーが、俺の完全なる意識、心、そして肉体と、寸分の狂いもなく100%合致して発揮された瞬間だったのだ。
体感時間は極限まで引き伸ばされて遅くなり、頭は恐怖を忘れて妙に冷静沈着になり、周囲の状況が驚くほど鮮明に観察できた。
そして何より奇妙だったのは、『自分の体を動かしている』という、あまりにも生々しい感覚だった。
何を当たり前のことを、と思うかもしれない。だが、普段生活していて普通に手足を動かすのとは、大分……いや、根本的に違っていたのだ。
何と言えば伝わるだろうか。そう、元の世界のゲームで例えるなら、『鈴木一朗』というキャラクターを、画面の外側にいる別の俺が、コントローラーを使って神がかった精度で操作している──そんな、極めて客観的で、それでいて完璧に肉体を制御できている不思議な感覚だったのだ。
「……そうかい。そいつはねぇ、『天』と呼ばれる状態さ。意念使いの中でその境地に至ることが、初段階の修行を終えた証とも言えるんだよ」
煙管の煙を紫煙としてくゆらせながら、婆さんがフム、と納得したように頷いた。
ここは見慣れた救護院のいつもの居間。俺が使っているベッドの上だ。
あの後、完全に白目を剥いて意識を失った俺を、魔狩人衆の男たちが「凄まじい反動で眠りについた英雄」として、それはそれは丁重に(お姫様抱っこでもされたんだろうか、考えたくもないが)救護院まで運んでくれたらしかった。
で、今朝になってようやく目を覚ました俺に、婆さんが「おい穀潰し、昨日森で何があったのか事の経緯を洗いざらい吐きな」と凄んできたため、俺が自分の覚えている範囲の感覚を、怯えながら報告していたところだった。
「てん……? 天?」
聞き覚えのない単語に、俺はベッドの上で首を傾げて聞き返した。
婆さんは煙管を薄い唇に咥え、深く一息吸い込んでから、白い煙を部屋の天井へと吐き出した。
「……そうさ。その『天』ってのはね、自分自身を外側から俯瞰して見るような感覚のことを言うんだよ。熟練の意念使いの領域になると、まるで空を飛ぶ鳥のように、戦場全体を上空から見下ろしているような感覚にまで研ぎ澄まされるって、昔聞いたことがあるねぇ」
「へぇ〜……。ってことは、婆さんはその『天』ってやつ、できないんだ?」
アタッ!!!
「ぶふぇっ!!?」
言葉の終わり際、婆さんの手元から音速で繰り出された煙管が、俺の頭頂部を綺麗にぶ叩いた。痛い! 今日起き立てなのに早くも二度目の頭部への被弾だよ!
「余計な口を叩くんじゃないよ、この穀潰しは。──何はともあれ、これで第一関門は突破だ。あんたは無事に『次の段階』へ進めるよ」
「 進みません! 俺はもうあんな心臓に悪い思いは御免です! 救護院の裏庭で大人しく水汲みと薪を割る平穏無事な隠居生活に戻らせてください!」
「次の段階ってのはねぇ──」
「いや人の話を聞いてく痛い痛い痛い!!! 聞く! 聞くからそのカチカチに硬い煙管で連続タップするのをやめてクソ婆さんっ!!」
「フゥ……」
涙目で頭を押さえる俺を見て、婆さんは呆れたようにため息混じりで煙を吐き出した。
「あんたが次にやることは、その『天』の状態を、意識的につくり出して、できるだけ長い時間維持できるようにすることさ。……ま、頑張りな。口を開けば文句ばっかりの妙なことばかり口走るバカ男だが……ここまで意念の習得が早いヤツなんて、あたしの長い人生でも早々お目にかかれるもんじゃないんだからね」
婆さんはそう静かに言い残すと、煙管を懐にしまい、どこか満足げな背中を見せながら部屋から出ていった。
パタン、と静かにドアが閉まる。
静まり返った居間で、ベッドに一人取り残された俺は、しばらく呆然とドアを見つめていた。
──今、何て言った?
早々お目にかかれるもんじゃない……? 頑張りな、だと……?
「……あ、あのクソ婆さんが、この俺を真面目に褒めた……!?」
ガタガタガタガタッ!!
遅れて、背筋に強烈な戦慄が走り、俺はベッドの上で己の身体を抱きしめて震え上がった。
間違いない。あの冷酷無比な悪魔の化身が、あんな優しい言葉をかけるなんて異常事態だ。
まさか……あのイフガマとかいう巨熊との死闘すら生温い生ぬるい前座に過ぎなくて、あれ以上の、それこそ魔王の軍勢と戦わせるような地獄の特訓メニューを裏で用意しているつもりなんじゃ……!?
「なんて恐ろしい事を計画してるんだ……! 鬼! 悪魔! クソババアめッ……っ!!」
婆さんのまっとうな高評価をこれ以上ない最悪の形に裏読みし、俺はただ布団を頭まで被って引きこもるしかなかった。
俺の夢見るダラダラとした至高のニート生活は、本人の預かり知らぬ才能のせいで、どんどん遥か彼方へと遠ざかっていく一方なのだった。




