ただ真っ直ぐに、薪を割るように
──ガッッッ!!!
強烈な風切り音と共にイフガマの豪腕が振り下ろされた瞬間、俺の身体は自分でも信じられないほどの生存本能によって突き動かされていた。
無意識に足の指先まで全神経が走り、爆発的な力で地面を蹴る。身体が文字通り弾け飛ぶような速度で後方へと躍進し、紙一重でその場から脱出していた。
「だ、大丈夫かイチロウッ!?」
遠くでおっさんが何かを叫んでいるが、その声は水の中にいるようにこもって俺の耳には届かない。
いまの俺の視界には、世界にただ一頭、目の前で鼻息を荒くしているこの巨大な熊公の姿しか映っていなかった。
熊公は一撃をかわされたことに驚いたのか、小さな赤黒い目で、油断なく俺の動きを見定めている。
だが、それは俺も同じだった。極限まで研ぎ澄まされた集中力の中で、俺の目は熊公の全身の輪郭を冷徹に観察していた。
(……あそこか)
気がついたのは、熊公の下腹部だ。
そこには、抉り取られたような生々しい傷口があり、何かの『角』のような破片が深く突き刺さったまま、ドクドクと血を流していた。
──そうか。さっきの片角が折れた鹿は、こいつと殺し合いをして、その角をこいつの腹にへし折って残していったんだ。
激痛のせいだろう。熊公の意識はひどく荒く、俺を睨みつける視線も、痛みで時折ブレているのが見て取れた。
観察を深めていくうちに、不思議な感覚が俺を包み込む。
あれほど圧倒的な絶望の象徴に見えた巨熊が、なぜか、見た目よりもずっと小さな存在に見えてきたのだ。それこそ、ただの無力な小熊のように。あるいはただの丸太のように。
理由はわからない。恐怖も、すでに消え失せていた。
元より戦意なんて持ち合わせていないはずの俺の胸の内に、なぜか、確固たる『自信』だけが満ち満ちていく。
(──これなら、勝てる)
「……すげぇ、なんだあれ……? 俺に意念の才能なんてねぇはずなのに……。イチロウの身体が、すげぇ光って見えるぞ……!?」
おっさんの驚愕に満ちた呟きすら、今の俺にとってはただの雑音だった。
リエンの言葉が脳裏に浮かぶ。今の自分より、一歩だけ強くなる想像を。
その一歩を、俺はもう踏み越えている。
俺は自然と、静かに構えを取っていた。
それは剣の型でも、魔法のポーズでもない。
この数ヶ月間、救護院の裏庭で毎日毎日、嫌になるほど繰り返してきた動作。──ただの『薪割り』の構えだ。
あるいは、あの恐竜のようなディラズィラを、骨と肉の隙間に刃を滑り込ませて解体していた時の、あの感覚。
いま、俺の右手には何も握られていない。
けれど、俺の手は確かに、硬い大木を一撃で叩き割る『斧』となり、巨大な魔獣の肉を寸分の狂いなく切り分ける『包丁』と化していた。全身を巡る意念の光が、右手の輪郭を鋭利な刃の形へと変形させていく。
熊公が、そんな俺の纏う空気の変化を察知し、本能的な恐怖からかズサリと一歩後退りした。
だが、もう遅い。
俺はただ、右手を振り下ろす。
何の迷いもなく、真っ直ぐに。
薪を割るように、肉を断つように、目の前の熊公へ向けて──ただ真っ直ぐに。
ザシュッッッ!!!!
一筋の眩い光の線が森の暗闇を走り、重戦車のような巨躯を誇ったイフガマは、声をあげる暇もなく、縦一文字に真っ直ぐに切り裂かれてその場に崩れ落ちたのだった。




