三十五歳の走馬灯に、聖母(ゴリラ)の説教はいらない
ズンタンズンタン、ズンタンズンタン、しかのk──。
突然、茂みの向こうから現れた異形の鹿を前に、俺の脳内は強制的に謎のダンスモードへと切り替わっていた。あまりの出来事に思考がショートし、現実逃避の防衛本能が、元の世界でネットで見た「しかのこ」の音楽とダンスを再生してしまったのだ。
「なにやってんだお前ェッ!? 逃げろ!!」
「ぐぇっ!?」
ダンスの最高潮に達しようとした瞬間、背後から魔狩人衆の頭のおっさんに首根っこをガシッと掴まれ、そのまま地面を滑るように後ろへと引き抜かれた。
「てめぇ、死にたいのか!? 魔獣の目の前でそんな無防備に踊り狂って、何を晒してやがる!」
「し、仕方かなったんや、仕方なかったんやぁ……っ! あまりに突然の出来事だったから、つい……。現実逃避に、ネットで見た番組始まるまで最高潮だったダンスで自分を鼓舞するしかなかったんだよぉ……っ!」
「なんで現実逃避の選択肢に『踊る』があるんだよ!? 普通は腰を抜かすか、逃げ出すだろうが……お前、胆が座ってんだか、それとも脳が腐ってんだか分からねぇ奴だな」
俺が膝を震わせながら必死に弁解していると、前衛の魔狩人衆の一人が、臨戦態勢で短弓を構えた。
「頭! 獲物は『イモハニガキ』だ! かなり興奮してるようだが……殺りますか!?」
木々の間から姿を現したのは、通常の鹿よりも二回りほど巨大で、その毛並みは針のように逆立ち、全身から異様な殺気を漂わせる魔獣だった。
「……角が片方、根元から折れてやがるな。どうやら他の魔獣とケンカでもして折ったらしい。手負いだ、今が仕留める好機だ! 抜かるなよ!」
頭の合図と共に、それまで疲労困憊していた男たちの表情が一変する。
先ほどまでの「イチロウの介護」という面倒な仕事から解放されたかのように、彼らの目は獲物を狙うプロの狩人のそれへと切り替わっていた。
俺は「あ、これ俺の出番じゃないやつだ」と本能的に悟り、風のように素早く、近くの巨大な老木の裏側へと姿を消した。
──いいぞ、その調子でやってくれ。俺のことは忘れて、その鹿を仕留めてくれ!
魔獣との戦いが始まる中、俺は安全地帯から戦況を(主に自分の生存を)見守るという「囮の囮」のポジションを完璧に確立したのだった。
「ッチ! 手負いな分、いつもより動きが荒くて厄介だな……。おいイチロウ! 危ねぇから、お前はとにかくそこから離れて隠れてろよ!」
イモハニガキの鋭い突進を紙一重でかわしながら、頭のおっさんが戦場から少し離れた俺のいる方へと心配そうな視線を送ってきた。
さすがはリーダー、元ニートへの福利厚生もバッチリだ。
俺は老木の影からひょっこりと顔を出し、親指を立てて『言われなくてもバッチリ隠れてますよ!』と、声を出さずに小さなサムズアップでアピールを返した。
──なのだが。
それを見た頭のおっさんが、なぜか今までに見たこともないような、顔面を蒼白にした絶望の表情で俺の背後を凝視した。
え? なに?
俺が戦闘に参加せず、安全圏でサボって隠れていたのがそんなにマズかった?
そんなに怒らなくてもいいじゃん、クソ婆さんから『使い潰せ』って言われてるけどさぁ……。
あと、さっきからなんなんだ?
俺のすぐ後ろの、耳元のあたりから、「フゴッ……フゴッ……」という、生暖かい湿気を含んだ巨大な鼻息が聞こえてくるのは。
あまりの恐怖に脳の防衛システムがみたび起動し、俺の脳内スピーカーは、のどかな合唱曲のメロディを最大音量で流し始めた。
(ここで一曲──。ある〜ひ〜♪ 森の中〜♪ イチロウは〜♪ 出会った〜♪魔獣住む森の道~♪)
ゆっくりと、錆びついた人形のように首を後ろへ回す。
そこには、俺が隠れていた老木の幹と見紛うほどの、圧倒的な質量を持った黒い毛並みと、俺の頭を一口で丸呑みできそうな大口を開けた、凶悪な顔のバケモノが直立していた。
「くまだぁああああああああああああッッッ!!!!!」
「グアォオオオオオオオオオオッッッ!!!!!」
俺の魂の絶叫と、鼓膜を破らんばかりの獣の咆哮が、同時に森の中に爆音で炸裂する。
「なっ……!? イ、イフガマだと……!? クソ、なんでこんな浅い場所にまで降りてきてやがるんだ!!」
イモハニガキと対峙していた頭のおっさんが、その凄まじい咆哮に冷や汗を流しながら驚愕の声をあげた。イフガマ。名前の響きはちょっと可愛いが、見た目は完全に重戦車クラスのガチの凶悪巨熊である。
風の音でもウサギでもない、本物の『死の化身』を至近距離で引き当ててしまった俺の運命は、出会って数秒で完全に崖っぷちへと立たされるのだった。
「グオオオオオオオッッッ!!!」
咆哮するイフガマ。
直立した巨躯から放たれる圧倒的な威圧感のまま、俺に向けて、大岩をも容易く引き裂くであろう鋭い爪を持った豪腕が振り下ろされる。
その瞬間、鈴木一朗の脳内クロックは、恐怖のあまり無限とも思えるほどの遅延を開始していた。
──あ、やべぇ。これ、俺死んだわ。
人間の脳は、死を確信した瞬間に『過去の記憶から生存のヒントを探す』ために走馬灯を見るという。
俺の脳裏にも、濁流のような速度で過去の記憶が駆け巡っていった。
幼い頃に経験した、両親の突然の死。
そこから、不自由なく自分を育ててくれた優しい祖父母の笑顔。
二人のために社会人となり、社畜として心身をすり潰しながらも懸命に働いていた時期。
──そして、良かれと思った自分の『善意』が引き金となり、結果として二人の命を奪ってしまった、あの最悪のあの日。
自分のせいで大切な人を失い、中身が完全に抜け殻となって引きこもり続けた、暗闇の十年間。
そこからの、唐突な異世界転移──。
なぜだろう。その暗く重い人生の記憶の中で、最後の最後に、あの救護院の裏庭で聞いたリエンの言葉が、やたらと長く、鮮明にリフレインし始めた。
『イチロウさん。意念の中で、身体強化は一番習得がしやすいとは言え、地道な鍛錬が必要です。これもその一環なのです。決して私は、イチロウさんを苛めているわけではありませんから……。あ、だからその、お願いですから泣かないでくださいね。三十路を過ぎた男の涙は、色んな意味で私の心が痛みます……。
……え? 意念のコツ、ですか。う〜ん、感覚のものなので人それぞれとしか言いようがないんですが、ひとつだけ。強化であるなら、先達者として一言。──強化は、いまの自分より、ほんの“一歩だけ”強くなる想像をしてください。その一歩が踏み込めたなら、二歩目も、その先も、驚くほど楽になりますから』
(──いや、いま、その説教臭くて役に立たねぇ説明なんか思い出すなよ俺の脳みそォオオオッッッ!!!)
目の前には、頭上から迫る熊の鋭利な爪。
せっかくの走馬灯なんだから、もっとこう、楽に死ねる方法とか、痛みを麻痺させる方法とか、そっちのライフハックを教えてくれよ!
違う! 楽に死ぬ方法じゃねぇ!
死なない方法は!? この状況から、五体満足で生き残る方法はどこにあるんだよチクショウッッッ!!!
リエンの言葉が脳内で鳴り響く中、俺は生存への強烈な執着と共に、ただひたすらに、目の前の絶望を拒絶するように奥歯を噛み締めるのだった。




