三十五歳元ニート、おっさんの人生の新しい扉を開く
「ヒィィイイヤァァアアアアアッッッ!!!!!???」
深い森の入り口に、おっさんの情けない絶叫が、まるで悲劇のヒロイン(生娘)の悲鳴のようになって木霊した。
「ひぃい!! く、来るな、来るなぁああ!! あっち行けシッ、シッ!!」
俺は必死に悪魔から距離を取る。
あいつらはヤバい。一度でも獲物を見つけたら集団で確実に仕留めに来る、貪食の化身だ。逃げろ! 逃げなければ確実に食い殺される!
なんと言っても、俺には某死ループ系主人公のような『死に戻り』の特殊能力なんて備わっていないのだから!!
「──おーい。イチロウ。ウサギ一匹にいちいちそこまでビビるなよ」
俺の両脇を固めて歩いていた魔狩人衆の一人が、深いため息をつきながら呆れた声をあげた。
その視線の先、草むらの陰からピコピコと耳を覗かせているのは、白くてモフモフした、どう見ても体長三十センチそこそこの小動物だった。
「ビビるわ! 異世界のウサギを舐めるな! ヤツらはな、見た目こそ可愛いが中身はガチのバケモノなんだよ! 俺は知ってる、ヤツらがひとたび群れを成せば、人間なんて骨も残さず数秒で貪り食う貪食性を……俺はネットの知識で知ってるんだよ!!」
「……どこのウサギだよそれ。聞いたこともねぇぞ」
「でなければ、赤い目をして物陰から奇襲し、人間の首を一撃で狩りに来るタイプのウサギだ! 挨拶代わりに『首をはねられた!』ってナレーションが入るんだよ! 間違いない!」
「そんなウサギいねぇよ、お前の中のウサギの評価どうなってんだ。ウサギはただのウサギだぞ? じっと見てるだけで向こうから逃げてくだろ」
「甘く見るなぁ! 貴様ら、死にたいのかチクショウ! ここをどこだと思ってるんだ! ここは牙を持つ魔獣どもが跋扈する、死の危険に満ちた前線なんだぞ!?」
俺が涙目でビシッと森の奥を指差しながら怒鳴り散らすと、魔狩人衆の頭のおっさんが、懐中時計をチラリと見てからジト目を向けた。
「……いや、ここ、まだ町から離れて十歩目くらいのところだな。すぐ後ろに町の門番の顔が見えてるぞ」
「…………」
振り返ると、本当にすぐそこに町の頑丈な木門があり、門番の兵士が「あいつ朝から何やってんだ……?」という憐れみの目をこちらに向けていた。
(イチロウくん、ビビってる。ヘイヘイヘイ!)
俺は無言のまま前を向き直し、脳内でやけくそ気味なラッパーを召喚してステップを踏んだ。
うるせぇ、ニートにとっての「外」は、家から一歩出た時点で全部等しく命の危険に満ちたハードコアエリアなんだよ……!!
(……もう、これで終わってもいい。だから、ありったけを、ここで全部──!!!)
「だからゴンさん! 俺に力をぉおおおおおおーーーーーッッッ!!!!!」
「待て待て待て! お前が今から何の対価を支払ってどこのどいつから力を借りようとしてるかは知らんが、一回止めれ! まずは落ち着けえええッ!!!」
俺が裏庭での修行を思い出し、全力の強化の意念を右拳に集中させて腰だめに構えた瞬間、魔狩人衆の頭のおっさんがガシッと俺の肩を掴んで全力で引き剥がした。
「おいイチロウ、ただの風だ! 今のはただ風が吹いて木々がガサガサって揺れただけなんだから、お願いだから落ち着いてくれ!」
「……モンダイナイ? ホントウニ?ダイジョウブ……?」
俺は焦点の合わない死んだ魚の目のまま、カタカナ混じりの平坦な声で頭のおっさんを見つめた。脳内ではすでに、髪の毛が天井を突き破って三十メートルほど垂直に伸び上がっている幻影が見えていた。
「おう、問題ない! 大丈夫だから、な? ほら、深呼吸だ。あたしと一緒に。吸ってー、吐いてー」
「スゥ……ハァ……。スゥ……ハァ……」
頭のおっさんの介護のような手ほどきに従い、何度も深呼吸を繰り返す。
ようやく拳の意念が霧散していくのを確認して、頭のおっさんは盛大に天を仰ぎ、文字通り頭を抱えてボヤいた。
「……おいおい、まだ森に入って百歩も進んでねぇんだぞ? これで本当にこの先、魔獣の囮なんて大役が務まるのかよ。先が思いやられるぜ……」
百戦錬磨の魔狩人衆の頭にそこまで絶望されているなど、パニック状態の俺が知る由もなかった。
とにかく俺にとっては、この鬱蒼とした異世界の森はどこを見ても死の罠にしか見えないのだ。俺は終始ガタガタと膝を震わせ、生まれたての小鹿のようなステップで、むっさ苦しい男たちの背中の後ろをストーカーのようにピッタリと付いていくことしか出来なかった。
カサガサッ。
不意に、すぐ真横の茂みから、先ほどよりも少し大きな擦れる音が聞こえた。
「ひぃぃいっっっ!!! 『我は放つ! 光の白じ──』」
「だから風が吹いてるだけっつってんだろォオオオッッッ!!! 毎回毎回、大層な魔法の詠唱を始めようとするんじゃねぇ!!!」
音速で頭のおっさんからツッコミの拳(優しめ)が俺の頭頂部に振り下ろされる。
魔獣に遭遇する前に、俺の過剰すぎる防衛本能と、おっさんのツッコミによる精神的疲労のデッドヒートが静かに幕を開けているのだった。
「ハァ……、ハァ……。クソッ、まだ魔獣の一匹にも出会ってねぇってのに……ここまで精神的に疲れたのは、新人の頃に初めて魔狩人として森に入ったとき以来じゃねえか……?」
頭のおっさんが、まるで丸三日徹夜でデスマーチを駆け抜けた社畜のような顔で、がっくりと肩を落として疲労困憊を訴えている。
おいおい、しっかりしてくれよ、この町の食料係兼防衛のリーダーなんだろ?
「ちょっとおっさん! 何をへばってるんだよ! おっさんがそんなにへばっちまったら、後ろにいる俺はどうすれば良いんだよ!?」
声を大にして叱咤激励(※ただの八つ当たり)を飛ばしながら、俺の脳内クロックはフル回転で最悪のシミュレーションを開始していた。
(待てよ……このおっさんがもし万が一、使い物にならなくなったら……。よし、その時はこのおっさんを魔獣の前に『囮』として放り出して、その隙に俺だけ救護院に全力疾走で逃げ帰ろう。うん、名案だな!)
「……なぁ、イチロウ。お前が今、脳内で何を考えてるかは知らねぇけどな。俺がここまで疲れてんのは、120%お前のせいだからな?」
「言いがかりをつけるな! 自分の体力のなさを他人のせいにするんじゃない! 人としてみっともないぞおっさん!」
「……なんだろうな。三十年の魔狩人人生の中で、目の前の人間の顔面を心底殴りたいと思った気分は、今が初めてかもしれん」
おや? 初めてだって?
そいつはよかったな、おっさん! 35歳元ニートのこの俺が、お前の人生の新しい扉を開いてやったってわけだ!
(童貞卒業おめでとう! おめでとう! 実にめでたいな! おめでとさん、おっさ──)
ゴッ!!!
「ぶッおふぇっ!!? な、なな、なんで殴るだぁあああッッッ!!!」
脳内でパチパチと拍手喝采を送っていた俺の側頭部に、おっさんの容赦のない拳(今度はガチ)が綺麗にクリーンヒットした。痛い! 火花散ったわ今!
「知らん! 理由は知らんが、今、お前のそのニヤついた死んだ魚の目の奥で、すっげぇナメ腐った態度で、俺をバカにしてんのだけは、ハッキリと理解したからだ!」
「……っつー、痛てて……。あんた、まさかリエンの言ってた『心蝕の意念使い』の身内か何かなのか……っ!?」
「ちげぇよ、ただの叩き上げの猟師の勘だよ、ハァ……。カザン婆の手紙を真に受けて連れてきたが、俺は完全に判断を誤ったかなぁ……」
頭のおっさんが、深く重いため息をつきながら自分の額を押さえた。
──判断を誤った?
(……え? かえるか? 帰るのか!? もしかして、不良品として救護院に返品リターンズしてくれる流れか!?)
俺の目に、今日一番の輝かしい生気がみなぎる。
「さあ帰ろう! すぐ帰ろうおっさん! いますぐ回れ右して救護院に帰ろう! 俺は大賛成だ! おっさんのその賢明な判断を、俺は一生支持するぞ!!」
ハイエナのようなスピード感で帰宅を提案する俺を、頭のおっさんは再びドブ川の生ゴミを見るような冷たい目で見下ろした。
「……バカ言え。まだ魔獣の毛一本すら狩ってねぇのに、このまま手ぶらで帰れるかよ。行くぞ、イチロウ。次、風の音で叫んだら本気で囮として木に縛り付けておくぞ」
「行きたくねぇよコンチクショウッッッ!!!」
俺のささやかな帰宅の願いは虚しく却下され、魔狩人の詰め所を出てからわずか「百歩強」の地点で、俺たちの(主におっさんのメンタル的な意味での)魔獣狩りはいよいよ本格的な森の深部へと突き進んでいくのだった。




