三十五歳、鉄壁の防衛トークスキルで勝利を確信する
リエンは旅立った。
あの美しき笑顔の放浪僧(バトルゴリラ尼僧)は、今度こそ本当に、この救護院からいなくなったのだ。
──ということは、だ。
つまり、この救護院に、俺の元に、ついにあの安らぎに満ちた平和が帰ってきたということである!!
(勝訴!!! 俺は勝ったんだァアアアッッッ!!! やったーーーー!!!!)
脳内でテレビニュースでお馴染みの「勝訴」の巻き紙を全力で掲げながら、俺は裏庭で誰も見ていないのを見計らってガッツポーズを激しく決めた。
とは言え、相変わらずカザン婆さんからのブラックな言い付け(日々の強制労働)は残っている。だが、あの監視の目がなくなった今、何も好んでこんなクソ重たい、嫌がらせみたいな鉄の枷をわざわざ手足につけたまま労働に励んでやる必要なんて──どこにもない(断言)。
というわけで、外しちゃいまーす!
ガシャ、ドォン……!
まずは右腕の枷を外し、地面に落とす。信じられないような重低音が響いた。
「……なんだろう。この、今ならドラゴンボールの悟空が重りを脱いだ時の天津飯の気持ちが宇宙で一番理解できる気がする感覚は……」
自分の手足に嵌められていたはずの鉄塊が、地面に落ちた途端に底無しの質量を主張している。俺は引きつった顔で、残りの左腕、両足の重りもすべてガシャガシャと取り外していった。
そして、手足が完全にフリーになったその瞬間──。
「お、おおっ……!? か、軽い……ッ!? 体が信じられないくらい軽いぞ……!?」
それは、誇張抜きで「今ここで跳んだら、そのままお星様になってお空の彼方まで飛んでいけそう」なくらいの、凄まじい浮遊感だった。
自分の肉体が、まるで羽毛か風船にでもなったかのように錯覚する。
興奮した俺が、その場で小刻みにピョンピョンと跳ねてみた、その時だった。
軽い気持ちで、ほんの少しだけふくらはぎに力を込めて上へと跳躍した瞬間、視界が猛烈な勢いで上空へと跳ね上がったのだ。
ヒュンッ!
「ぶ、ふぇっ!?」
風を切る音が耳元を通り過ぎる。気がつけば、俺の頭頂部は救護院の裏庭にある軒先を遥かに超え、優に自分の身長(平均的成人男性サイズ)を優に超える高さまで、垂直に跳び上がっていた。文字通りの大ジャンプである。
ドスンッ!
着地した俺は、あまりの衝撃に言葉を失い、その場に固まった。
……。
俺は無言のまま、自分の太もも、お腹、二の腕を、まるで未知の生物の身体を確かめるかのように、恐る恐るなで回した。
三ヶ月。
あのクソ婆さんの下で地獄の荷車引きをやらされ、雲水のゴリラ姉ちゃんにアホみたいな鉄枷を嵌められて毎日死に物狂いで意念を使わされていた、あの地獄の日々。
知らぬ間に、俺の身体は、そんな常識外れの負荷に耐えうるだけの、バケモノじみた筋肉と身体能力をベースから構築されてしまっていたらしい。
「…………」
俺は静かに、本当に誰にも見られないように隠密の動きで、落ちているクソ重い枷を両手で拾い上げた。
そして、先ほど外したばかりの両手足へと、何事もなかったかのように再びパチン、パチンと着け直しのである。
ズシィイイイン……と、再び俺の肉体に馴染み深い「地獄の重力」が戻ってくる。
「……さて、仕事すッか」
俺は深くため息をつくと、荷車の取っ手を握り締め、再びいつもの冴えない「救護院の雑用係のおっさん」の顔に戻って、のそのそと歩き出すのだった。
「よいしょ、こらしょ……。あー、ダル。マジでダルい。誰か俺の代わりにこの荷車を目的地まで運んでくんねぇかなぁ……」
手足にズッシリと戻ってきた枷の重みを感じながら、俺はぶつぶつと呪詛を吐き、のそのそと亀のような足取りで歩き出す。
そんな、どこまでも冴えない、しかし確実に三ヶ月前より分厚くなった背中を──救護院の母屋の陰から、カザン婆さんが静かに見つめていた。
「ふん……。やれば出来るようになったじゃないかい。穀潰しは」
婆さんは煙管をくゆらせながら、皺だらけの顔に、またひとつ深い皺を増やすようにして、フッと満足げに口角を上げた。
一朗が自分の成長を隠すために自ら重りを嵌め直したことなど、あの老婆の目にはとっくにすべてお見通しだったらしい。
そんな婆さんの視線に気づくこともなく、俺が街の通りへと荷車を引きずり出した、その時だった。
「よう、救護院のところのおっさんじゃねえか。ちょっと良いか?」
不意に、横道から現れた見知らぬ男に声をかけられた。
身なりのいい、だがどことなく無頼な雰囲気を漂わせた中年男だ。男は親しげに俺を「おっさん」と呼んできたが、その言葉が元ニートの三十五歳の繊細なプライドにチクりと刺さった。
「あぁん!? 俺がおっさんなら、お前もおっさんだろうが! 鏡見てから喋れ! これからお前のこともおっさんって呼ぶからな、おいおっさん!」
「……いや、うん、そうだな。俺もおっさんだな。わりぃな、そこは弁えるわ」
俺の理不尽なキレ方に、男は一瞬呆気に取られたものの、妙に素直に納得して頭を掻いた。いい歳して、意外と聞き分けのいいおっさんである。
「で、なんだよおっさん。俺は今、神聖なる労働中なんだよ。用があっても一言も声かけんじゃねぇぞ、目も合わせるな」
「いや普通は『何か用か? 声かけろよ』じゃねえのかよ!? なんで最初から完全拒絶なんだよ!」
「いやだ! 聞きたくない! 耳を塞ぎたい!!」
俺は荷車の手すりを握ったまま、男に向かって断固とした拒絶のポーズをとった。
「良いかおっさん、よく聞け。いま、この過酷な異世界サバイバルを生き抜く俺にとっての『良いヤツ』とはな、俺に一切の仕事を持ってこない代わりに、俺の分の仕事まで全部代わりにやってくれる聖人のようなヤツのことだ! 反対に『悪いヤツ』とは、俺に理不尽なほどの労働や、修行と称したガチの拷問を笑顔で押し付けてくる、あの救護院の女どものような悪魔のことだ! お前が前者の素晴らしい聖人であることを、俺は今、切に願っている……!!」
「…………」
一息に捲し立てられた元ニートの魂の叫びに、男は完全にドン引きし、言葉を失ってフリーズした。
沈黙が通りを支配する。あまりの気迫に圧倒されたのか、男は引きつった顔でジリジリと後退りし始めた。
「……うん。なんか、悪かった。用事、もういいって。いいよ、忘れてくれ……」
「よし! 交渉成立だな! じゃあな、おっさん!!」
「いいっていいよ」と力なく手を振る男を、俺は一瞬の迷いもなく振り切ると、勝利の凱歌を脳内で鳴らしながら、救護院に向けて再び力強く荷車を引きずり始めた。
見たか! これが三十五年間培ってきた、面倒事を未然に防ぐ『鉄壁の防衛トークスキル』だ!!




