雲水の旅立ちと、庭に木霊する『アラム・オヤサ』
その日、俺は思い出した。
かつて俺が、暗闇(冷暖房)の中で誰にも邪魔されずに享受していた、あの『自由』という名のパライソ(楽園)を──。
「カザン様。長々とお世話になりました」
救護院の正門の前。
リエンは、三ヶ月前にこの場所に現れた時と全く同じ、汚れひとつない純白の雲水服に身を包み、簡素な旅の荷物を背負って、婆さんに向かって深々と頭を下げていた。
「なに、大したおもてなしも出来なくて悪かったねぇ。それよりも、うちの餓鬼どもの面倒を見てもらった上に、あんたには大分迷惑をかけたようだからね。こっちのほうが恐縮さ」
カザン婆さんが、いつものドスの利いた声とは違う、年長者らしい静かで温かみのある声でリエンを労う。
そう。今日は、雲水の姉ちゃんことリエンが、本来の目的である『放浪の旅』へと再び出発する、お別れの日なのだ。
正門の前には、カザン婆さんを筆頭に、救護院の子供たち、そして俺を含めた全員が揃って見送りのために集まっていた。
子供たちは「リエンのねーちゃん、行っちゃうの?」「またお肉持ってきてね!」と口々に寂しそうな声を上げている。
だが、俺の内心はそんな殊勝なものではなかった。
脳内では今、リオでサンバのカーニバルと100万発の花火が同時に打ち上がるレベルの、文字通り狂喜乱舞の大爆発が起きていた。
(……だめだ! まだだ! まだ顔の表情を崩すんじゃねぇぞ、俺の顔面筋肉ッ……!!)
嬉しい。嬉しすぎる。あのバトルゴリラ尼僧が、ついにこの地から去っていく……!
あの笑顔の拷問官がいなくなれば、脳みその血管が千切れかける毎日毎秒の超集中修行からも、手足に嵌められたクソ重い鉄の枷からも、怪獣の素手解体ショー(予定)からも、俺はすべて解放されるのだ! 戻ってきた、俺のぬるま湯の現世が、生産性ゼロの輝かしい日々が、今まさにすぐそこまで戻ってきたんだァアアアッッッ!!!
……しかし、ここでその大歓喜をミリ単位でもリエンに悟られた日には、一体どんな『最後の愛の鞭(地獄の居残り特訓)』をぶち込まれるか分かったもんじゃない。あの女の五感強化と野生の勘をナメてはいけない。
俺は必死になって、ズボンのポケットの中で己の太ももの肉を「ンギギギギ……っ!」と爪が食い込むほどに全力でつねり上げた。
嬉しさでニヤけそうになる顔を、激痛によって無理やり歪ませ、あたかも「別れが悲しくて涙を堪えている男」の表情へと必死に偽装する。痛い。めちゃくちゃ痛い。だが、自由のための代償だと思えば安いものだ……!
リエンは集まった子供たちの頭を一人一人優しく撫でながら、別れの挨拶を交わしていく。
そしてついに──その長い脚が、俺の目の前でピタリと止まった。
「イチロウさん」
凛とした鈴を転がすような声で名前を呼ばれ、俺の全身の細胞が恐怖で一斉に直立不動になる。
「あなたは本当に、素晴らしい才能の持ち主です。それは私が保証します。ですから……どうか、その才能を伸ばす努力を怠らぬようにしてくださいね」
「……あ、ハイ、あざす……」
元引きこもりニートの悲しき習性で、眩しすぎるエリートからの直球の激励に対し、体育会系の部活の後輩みたいな死んだ返事しか出てこない。
よし、これで挨拶は終わりだな! さあ早く行ってくれ、東へでも西へでも地の果てへでも!!
だが、リエンは聖母の笑みを崩さないまま、俺の手足に嵌められたクソ重い鉄の枷を見つめて言葉を続けた。
「これから毎日、その枷の『負荷』を少しずつ、徐々に増やしていってください。う~ん、そうですね。私がまたこの救護院の門を訪ねるときには、今以上に意念を自在に扱えるようになっていることを、心から期待していますよ?」
(……あ?)
今、このバトルゴリラ尼僧はなんと言った?
また訪ねる? 期待している?
つまりそれは、リエンが旅立った後も俺はこのクソ重い鉄の枷を嵌め続け、毎日毎日ハゲ上がるほどの超集中修行を自習で継続し、数ヶ月後か数年後かに抜き打ちテストをやりに戻ってくるという意味か……!?
「にど──」
その瞬間、俺の脳のストッパーが吹き飛び、本音が口から滑り出しかけた。
(──二度と会うかボケェエエエエハゲェエエエエエーーーーー!!!!)
「──お会いできる日を、心から楽しみにしています(ニッコリ)」
「ええ、私もです」
危ねぇえええええええっっっ!!!
全速力で「二度と会うかボケ」と叫びそうになった舌を、コンマ数秒の神速のフェイントで「二度、お会いできる日を」へと力技で軌道修正してやったわ!!
俺の三十五年間の適応能力と、ピンチの時のアドレナリン分泌量をナメるなよ! もしそのまま本音をブチ撒けていたら、今すぐこの場でディラズィラと同じように綺麗に素手で解体されて裏庭のブロック肉にされていたところだったぞ……!
俺の決死の言い換えに気づいているのかいないのか、リエンは満足そうに深く頷くと、一歩下がって全員の前に向かい合った。
「それでは皆様、ご健勝であられますよう。──アラム・オヤサ」
リエンは胸の前で恭しく合掌印を組むと、独特のイントネーションで謎の言葉を紡いだ。
すると、俺がポカンと口を開けている横で、カザン婆さんも子供たちも、まるでそれが当然の作法であるかのように同じく胸の前で手を合わせ、声を揃えて唱えたのだ。
「『アラム・オヤサ』」
──アラム・オヤサ。
その響きが、旅立つリエンの背中を静かに見送る救護院の庭に、優しく木霊するのだった。




