この丸太はもう、割れている(※割れていません)」
『意念』──。
それは一種の『ゾーン』へと自らの精神を持っていき、超絶的な集中力からなる圧倒的な想像力をもって、現実の世界へと出力する御業。
つまり、だ。
俺が初日に考えた「妄想力が必要」という仮説は、あながち間違いではなかったのだ。ただ、その妄想を現実に侵食させるほどの、限界突破したブチ抜きの集中力が必要だというだけのこと。
ならば、思い描け!
三十五年もの間、日本のぬるま湯の中で培われ、脳内にパンパンに蓄積されてきた俺の『オタクの力』よ!
今こそ目覚めろ、俺の暗黒の中二力よォオオオッッ!!
「……フゥォォォォ……フゥォォォ……」
俺は静かに目を閉じ、大気の流れを感じるように深く呼吸を繰り返した。手足の鉄の枷がズシリと重いが、今の俺の集中力の前には、そんなものはただの精神統一のスパイスに過ぎない。
俺は両の腕をゆっくりと掲げ、夕闇の裏庭の虚空に、滑らかな軌跡で『北斗の七星』を描き出した。
今、俺の脳内BGMは完全にあの世紀末の激しいインストナンバーが鳴り響いている。
カッ! と俺は力強く目を見開いた。
「ホワッタァアアアアッッッ!!! アータッタッタッタッタッタッタッタッタッタッ!!! ホワッタァアアアーーーッッッ!!!」
俺は手足の枷をガシャガシャと激しく鳴らしながら、怪鳥の如き叫び声を上げ、目の前の極太の丸太に向かって無数の生身の手刀(突き)を猛烈な勢いで叩き込んだ。残像すら見えるほどの、魂の連打である。
叩き込み終えた俺は、ふぅー……と静かに息を吐き、サッと右手を引いて背を向けた。
そして、前髪を軽くかき上げながら、これ以上ないほどに冷酷でクールな視線を斜め後ろへと進め、ぽつりと呟いた。
「……この丸太はもう、割れている」
キリッ。
完璧だ。完全に決まった。今、俺の右手からは見えない闘気が解き放たれ、時間差でこの丸太を内部から木端微塵に粉砕──
……。
……パキリとも言わねぇ。
夕暮れの裏庭に、ただただ気まずい沈黙の風が吹き抜ける。
台座の上の丸太は、俺の連打によってちょっと表面が手垢で汚れただけで、ピクリとも、一ミリの亀裂すら入ることなく、どっしりとそこに鎮座し続けていた。
あまりの静けさに俺の冷や汗が引き始めたその時、後ろで一部始終を真顔で見ていたリエンが、ひどく冷静に、そして心の底から戸惑ったようなトーンでぽつりと尋ねてきた。
「……あの。イチロウさん。……いまのは、一体、何をなさっておいでで……?」
「あ、いや……その……時間差でパッカーンってなるかなって……」
丁寧な敬語のまま繰り出された、リエンのガチのドン引きの眼差しが、三十五歳元ニートのガラスのハートを容赦なく鋭利に突き刺すのだった。
俺は真っ赤になりながらも、リエンに向かって「いや、これでもあんたに言われた通り、脳内のイマジネーションを極限まで高めてやった結果なんや!?」と、必死の言い訳(というか解説)を捲し立てた。
それを聞いたリエンは、しばし顎に手を当てて深く考え込んだ後、ポンと手を叩いてこう返してきた。
「なるほど。つまり……いまのイチロウさんの『奇行』は──」
「奇行言うなや!! 魂の叫びだよ!!」
「──コホン。いわゆる『意念の現象使い』がよく用いる、詠唱式のやり方をなぞったのですね。言葉や動作によって自己の精神を誘導する行為……あれは確かに、集中を高める補助的な意味合いでは理に叶っています。ですが、やはり自分の『器』に合ったやり方を模索しなければ、出力の効率が悪く、結果として失敗に終わります。いまのイチロウさんが盛大に失敗したのも、完全にそのせいですね」
つまり何ですか。俺はまた、自分の身の丈に合わない、某世紀末覇王の技なんていう超大技を繰り出そうとして自爆したと、そういうことですか?
じゃあ一体どうすればよかったんだよ。中二病の妄想力じゃダメなら、俺にどうやってゾーンに入れって言うんだ。
「ですので、やはり立ち返るべきは、私が先ほどからずっと教えてきた『薪割り』です」
「なんですと……!?」
薪割り!?
あの、ただのブラック残業でしかない、俺がこの世界で一番憎んでいる忌々しい労働が、一体何の教えになってるって言うんだよ。
「カザン様が課した日々の労働、そして私が課した反復訓練。何度も、何度も、それこそ何千、何万回と同じ型を繰り返し行ってきたことで、イチロウさんの『体』に、『心』に、そして『意識』に、その動きは完全に染み付いています。今度は、そのルートを逆流させるのです。──意識から心に、心から体に、記憶を逆転させて出力を行う。そうすれば、意念は必然的に発現するはずです」
リエンの言葉の熱量がじわりと上がる。
「と言うより……イチロウさん。あなたは、あの手斧を使っていた時、すでに『無意識に意念を扱っている瞬間』が、何度もあったのですよ?」
「は……? ま、マジですか……ッ!?」
俺の口から、素の驚愕の声が漏れ出た。
意念を扱っていた? 俺が?
ちょっと待ってくれ、そんな超重要かつ主人公みたいなチート裏設定、今この瞬間まで一言も聞いたことがない、完全なる初耳なんですけど──!!?
と、とりあえず……お、俺はやってみみみる……。
お、おお落ち着け、一朗。落ち着くんだ。ようやく手に入れられるかもしれない異世界チート能力を前に、緊張と期待で心臓がバクバク丸だしなのは分かるが、まずは冷静になれ。
素数だ。こういう時は、心を落ち着かせるために素数を数えるんだ。
ええっと、いち、に、さん……だーーーッッ!!!
違う!!! これじゃアントニオの方の猪木だろ! 迷わず行けばどうなるんだよ! 完全にテンパってんじゃねぇか俺のバカ!!
「──イチロウさん。落ち着いてやってください。あなたなら必ず出来ますから。まずは自分を、そしてあなたの体に刻まれた日々を信じることです」
背後から、リエンのどこか厳かで、それでいて確かな信頼に満ちた声が鼓膜を震わせた。
その声に導かれるように、俺の脳内から猪木も世紀末覇王もスッと消え失せていった。
「お、おう……。すぅ、はぁ……すぅ、はぁ……よし」
俺はゆっくりと構えた。手足の鉄の枷の重みが、不思議と今は心地よい錨のように身体を安定させている。
目を閉じ、あの日々を思い出す。クソ婆さんにどやされながら、毎日毎日、それこそ吐くほど繰り返してきた、あの忌々しい薪割りの感覚。
手斧の、あの使い古された木製の柄の感触を、俺は右手の掌へと鮮烈に呼び起こした。
全神経を手刀へと集中させる。
手は斧だ。斧は手だ。
空間を切り裂き、丸太は割れる。
割れる……割れる……割れる……!
──ストン。
完全に、ノイズが消えた。
俺の右手は、最早ただの生身の肉塊ではなかった。鋭利な鋼の刃そのものだった。
「──ふっ!!」
鋭い呼気と共に、俺は無造作に右手を振り下ろした。
手刀はまるで吸い込まれるように、極太の丸太のド真ん中へと綺麗に突き刺さっていく。
ゴンッ!!!
裏庭に響いたのは、人間の肉体が木を叩く鈍い音ではない。間違いなく、鉄の斧が頑丈な大木へと深く喰い込んだ、あの硬質な衝撃音だった。
「…………あ」
俺の右手刀は、丸太のちょうど半分ほどの深さで、ガッチリと挟まれるようにして止まっていた。
割るところまではいかなかった。完全に両断するには、まだ出力が足りない。
止まった。止まった、けれど──。
「……で、出来た。……俺、今、出来たよな……?」
恐る恐る振り返り、かすれた声で尋ねる俺の視線の先で。
リエンは、まるで我が子の成長を見守る母親のような、これ以上ないほどに優しく、誇らしげな満面の笑顔を浮かべて深く頷いた。
「はい。お見事です、イチロウさん。確かに今、あなたは『意念』の『強化』を現実へと出力されました。出来ましたよ」
「──」
その言葉を聞いた瞬間。
なんでだか、本当になんでだか自分でもよく分からないけれど。
じわりと、俺の目から熱い涙がポロポロと溢れ出て、止まらなくなってしまったのだった。




