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楽をしたいという、世界一汚いモチベーション





「もう……もうガチで無理です。俺のライフは完全にゼロです……」


 救護院に引きずり戻された俺は、恥も外聞もなくボロ泣きしながら、パンパンに赤く腫れ上がった両手をリエンの眼前に突き出し、全力のギブアップ宣言をした。


 頼むからこれ以上、俺の大事な手を丸太への自爆特攻に遣わせないでくれ。


 「イチロウさん。ここで諦めたら、それまでですよ? 」


 ……お前はとりあえず、全国のバスケ部員と安西先生にジャンピング土下座で謝ってこい。


 あの仏の先生なら、生身の手刀で丸太を割れなんていう理不尽な強制労働に対してそんなことは絶対に言わんわ!


 「ほら、もう一度だけ。あと一回だけでいいですから、やってください」


 なんだろうな。文字面だけ見れば、女性に言われたら奮起して頑張る男なんだけど、これほど聞いていて嬉しくない、むしろ殺意すら覚える言葉を、俺は三十五年の人生の中で一度も聞いたことがないよ。


 「……チクショウ、これで本当に最後だからな! ラスト一回だからなッ!」


 俺は恨みがましい声を上げると、重い鉛のようになった右腕をどうにか持ち上げた。


 もちろん、まともに力を込める気なんて一ミリもない。早く終わらせて解放されたい一心で、俺は丸太の表面に「ストン」と、ただ触れさせるだけの動作で右手を叩きつけた。


 バチィ、と虚しい音が響く。


 当然、丸太が割れる気配なんてこれっぽっちもない。


 「ほら、割れない! 無理! もういいよな!?」


 俺がギロリと視線を進めると、リエンはひどくガッカリしたような、なんとも残念そうな表情を浮かべて、小さく息を吐いた。


 「……はい。そうですね。今日のところはこれくらいにして、終わりにしましょう」


 「よっしゃあああ!!」と、その場で歓喜のスキップでもかましたい気分だった。


 だが、ここで下手に元気な姿を見せたら、この天然ゴリラお姉ちゃんは「おや、まだやれますか?」とか笑顔で言い出しかねない。俺はこれ以上ないほど背中を丸め、この世の終わりみたいな痛々しい雰囲気を全身から醸し出しながら、一歩一歩這うようにしてその場を去った。


 ──フゥ、と。


 一郎の足音が完全に消え去った静かな裏庭で、リエンは腕を組み、一人ぽつりと呟いた。


 「……う〜ん。おかしいですね。いまの最後の一撃、私には確かに、完璧に『力の路』が通っていたように見えたのですが──」


 リエンが怪訝けげんそうに、一郎が最後に手を当てた丸太へと視線を落とした、その瞬間だった。


 パキ、パキパキ……。


 乾いた小さな音が静寂に響く。


 一郎が、ただ触れただけのはずの丸太のド真ん中に──まるで内側から押し広げられたかのような、深い『一本の亀裂』が走ったのだ。


 「──!」


 それを見たリエンの顔に、みるみるうちに華やかな笑みが溢れ、瞳の奥の炎がさらにパチパチと音を立てて燃え上がった。


 「やはり……! やはり、私の指導方針に間違いはなかったのですね! イチロウさん、ツンツンと反発しながらも、私の言葉をあそこまで完璧に体現してくださるなんて……!」


 感動に肩を震わせるリエン。


 「これだけ早く適応できるのであれば、明日の修行からは──『もう少し強度を上げても』良さそうですね」


 夕闇の裏庭で、リエンはそれはそれはにこやかに、哀れな三十五歳元ニートをさらなる深淵の地獄へと叩き落とす恐怖の決定を下すのだった。


 次の日の朝。


 昨日ボロボロにされた両手のおかげで、一晩中ジンジンとした痛みにのたうち回り、一秒たりとも熟睡できないまま俺の最悪な朝は始まった。


 それでも、サボればクソ婆さんの鉄拳が飛んでくる。俺は泣く泣く寝床から這い出ると、いつも通り水汲みをしようと井戸へと向かった。──向かおうとした、その瞬間だった。


 背後から忍び寄ってきたリエンによって、俺の両手首、そして両足首に、ガチリと鈍い音を立てて『鉄のかせ』が嵌められた。


 「……え?」


 見下ろすと、ずっしりとした異様な重量感を放つ金属の塊が、俺の四肢をガッチリとホールドしている。


 あまりの重さに、それだけで膝がガクガクと笑い始めた。


 なにこれ。俺に天下一武道会に出る頃の孫悟空でも目指せってか?


 言っておくがな、地球の重力の数倍とかいう部屋で特訓したところで、俺が到達できる限界値なんて、ナッパに特攻して途中で退場する餃子チャオズが関の山だぞ! 奇跡の生還もくそもねぇわ!


 「……あのー。めちゃくちゃ重いんで、今すぐ外しますね」


 「外しちゃダメです」


 秒で却下された。リエンは満面の笑みのまま、俺の逃げ道を完全に塞ぐように仁王立ちしている。


 「今日からそれをつけて、普段の生活と仕事をしてもらいます。それが今日の『修行』です」


 「嫌なんですけど。歩くのすら邪魔で死にそうなんですけど」


 「頑張ってください、イチロウさん。あなたなら必ず出来ますから!」


 その根拠は一体どこから湧いて出てきてるんですかお願いだから教えてください!?


 丸太に触れただけで自爆してる男だぞ俺は!


 そういう何の根拠もないポジティブな激励の言葉は、今の俺のメンタルにはダイレクトにハンマーで殴られるのと同じくらい痛いので、本当に止めてください……!


 必死の目で訴えかける俺に対し、リエンは一切のブレもなく、聖母のような慈愛の笑みを浮かべてじっと見つめ返してくる。


 ……あ、ダメなんですね。


 何を言っても無駄なんですね、ソウナンデスネ。


 あのクソ婆さんといい、この熱血ゴリラ尼僧といい、この世界の人間は何でどいつもこいつも俺の意思を完全無視して肉体を破壊しにかかってくるんだ本当に!


 俺は魂が口から抜け出しかけた顔になりながら、嫌々ながらもその日から、手足にアホみたいな重りを引きずって仕事をさせられる嵌めになった。


 当然、そんな嫌がらせのような負荷をかけられて、元ニートの身体がまともに動くはずもない。ただでさえ遅い仕事のスピードは、昨日までのそれと比べて格段に遅くなり、荷車を一歩進めるだけで生まれたての小鹿のように全身をワナワナと震わせるのだった。


 手足にクソ重い鉄の枷を嵌められたからといって、悲しいかな、俺に課せられた一日の労働量が免除されるわけではなかった。


 今のところ仕事量が増える気配まではないが、「そのうちあのクソ婆さんのことだから倍にしてくるんじゃねぇか」という不吉な予感めいたものが、俺の優秀な灰色の脳細胞(ポアロ気取り)をチクチクと刺激してやまない。


 「……はぁ。……はい、今日も割れませんでしたー」


 今日も今日とて夕暮れの裏庭で、俺は丸太を素手で割らされていた。しかも、手足にアホみたいな重りをぶら下げた状態で、だ。


 もうしんどすぎて、頭が完全にフリーズしている。脳のライフゲージはとっくに底をつき、何一つまともな思考が浮かばない。俺は「無心の境地」を遥かに通り越し、ただの「放心状態(もぬけの殻)」のまま、機械的に丸太へと右手を下ろしていた。ストン、ストンと、ただ虚しく肉が木肌を叩く音が鳴るだけだ。


 そんな俺の抜け殻のような姿を見て、後ろで監視していたリエンが、不満そうに眉をひそめて声をかけてきた。


 「……イチロウさん。あなた、本当に真面目にやっていますか?」


 「やってますがァアアアッッ!? 全力でやってこうなってますがァアアアッッッ!!!???」


 俺は一瞬で放心から沸騰へと切り替わり、腫れ上がった両手を振り回してキレ散らかした。


 「一体これ以上、何の期待を俺に寄せてるんですかね?この姉ちゃんは!? 俺はもう一刻も早く家に帰って泥のように寝たい! 疲れた! しんどい! 眠い! 俺の心からは今、ネガティブな漆黒の感情しか出てこねぇよ!!」


 涙目で叫ぶ俺に対し、リエンはう〜んと顎に手を当て、心底不思議そうに首を傾げた。


 「う〜ん……。おかしいですね。いまのイチロウさんの身体の出来なら、『意念の強化』さえ使えば、薪割りくらいは『楽』にできるはずなんですけど……」


 ピクッ。


 その瞬間、リエンが何気なく口にした『楽』という魅惑の二文字に、俺の両耳が野生のウサギ並みの鋭さでピクピクと過剰反応を起こした。


 「……え? ちょっと待って。今なんて言った? らく? 楽できるの? それを使えば、このクソ忌々しい薪割りが、汗一つかかずにイージーモードで終わるってこと?」


 「え、ええ……の、はずですよ? イチロウさんの内側には、すでに『意念の強化』の基礎が出来つつありますから。今はそれを、本番でも『意図的に、意識的に』発現できるようになるための修行を行っているのですが……」


 「それをっ!! 最初にっ!! 早く言えよォオオオオオオオオッッッ!!!」


 俺は裏庭の全精力を込めて、鼓膜が破れんばかりの絶叫をリエンに叩きつけた。


 なんだよそれ! 最初に「これ覚えれば仕事がめっちゃ楽になるよ!」って言えよ! だったら俺だって「お前は薪割りだ!」とか意味不明な自己暗示かけずに、もっと目を血走らせて真面目に覚える努力をしたわ!!


 「ええええっ!? 私、初日にきちんと細かく説明していましたよ!?」


 リエンが心底心外だとばかりに目を丸くして驚愕の声を上げる。


 だが、知らん! 俺は何も知らん!


 俺の耳が認識していないということは、お前はきちんとも、説明も、一単語たりとも発信していない。以上、説明終わり! Q&A!! 閉廷!!!


 「おいリエン、その『意念』ってやつを意図的に出すにはどうすればいいんだ! 早く教えろ! 楽させろ!!」


 さっきまでのボロ雑巾のような疲労感はどこへやら。


 『楽をして生きたい』という、元ニートとしてのあまりにも強欲な汚いモチベーションに火がついた一郎の目が、かつてないほど邪悪なギラつきを放ち始めるのだった。













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