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純粋無垢な善意の暴力




 速度で丸太が真っ二つに裂ける快音が響き渡る。


 なぜ俺が、ここまで腕の筋肉が千切れんばかりに一心不乱に薪を割っているかって?


 理由なんてひとつしかねぇよ。後ろにいるリエンが、めちゃくちゃ怖いのよ!!


 彼女は俺の少し後ろで腕を組み、相変わらずあの顕微鏡で未知のプランクトンを見るような視線を向けたまま、時折「うん、うん」と何事かを深く納得したように訳知り顔で頷いている。


 何が怖いって、これだけプレッシャーをかけておいて『何の説明もないこと』が一番怖い。


 なぜ俺は今これをやらされているの? 救護院の仕事だから? それともさっき彼女が言っていた『修行』ってのは何なの? 疑問が頭の中をぐるぐると──


 「イチロウさん。雑念が混じっています。もっと集中してください」


 「ひぎゃっ!?」


 鋭い声が飛び、俺の背筋が跳ね上がった。


 ダメだ、このお姉ちゃん……! 人の話を聞かないどころか、自分の考えを一切他人に説明せず、己のルールだけを力尽くで押し通すタイプの人間だ!


 どうする俺。あの人間大砲みたいなクソ婆さん以上に、ある意味でタチが悪くて厄介すぎる相手に捕まっちまったぞ……!


 「……ふむ。これだけの出力が出せるのなら、そろそろ斧は要りませんかね」


 「……は?」


 あまりに唐突な独り言に、俺は思わず斧を構えたまま動きを止めた。


 今、この姉ちゃん、なんて言った? 斧は要らない?


 何を言ってるのこの人は。薪割りっていうのは、頑丈な鉄の斧があって初めて成立する労働でしょうが。それなのに斧は不要って、顔は美人なのに頭のネジが何本かトチ狂ってんじゃねぇか、この姉ちゃんよォ!


 俺がドン引きの眼差しを向けていると、リエンは静かに俺の前に歩み出た。


 「出来ますよ、イチロウさん。ほら──こうやって」


 リエンは右手の五指をピンと伸ばし、綺麗な『手刀』の形を作った。


 そして、台座の上にドンと置かれた、まだ割られていない極太の丸太に向かって、その華奢な右手を真っ直ぐに振り下ろしたのだ。


 その瞬間。俺の目は、確かに捉えた。


 彼女の右手の表面が、夕闇の中でまるで宝石のように、一瞬だけ『キラキラ』と目も眩むような光を放ったのを。


 パッカーーーン!!!


 鉄の斧でも一撃では難しいはずの巨木が、乾いた破裂音と共に、まるでお豆腐でも切るかのように綺麗に左右対称に両断された。手刀で。生身の手刀で、である。


 「………………なにしたの?」


 俺の口から出たのは、限界まで掠れた、情けない引きった声だった。


 「手で割ったんですよ。さあ、次はイチロウさんの番です。斧を置いて、構えてください」


 リエンはさも『おはようございます』くらいの平然としたトーンで、俺に地獄のバトンを渡してきたのだった。


 逃げたい。ちょーーーこの場から逃げ出したい。


 今すぐ手斧を投げ捨てて、荷車に飛び乗って、そのまま世界の果てまでバックれたい。


 だが、リエンの濁りのない美しい瞳が、


 『私が信じるあなたを信じてください』


 と、どこかの熱血ロボットアニメの主人公みたいな熱量で、まっすぐにこちらを訴えかけてくるのだ。


 (知らんがな! 勝手に信じとけ! 熱い想いを他人に押し付けんな! 手で丸太を割れってか!? 俺の手の骨を粉々の微塵切りにしようっていう恐ろしい魂胆か、この女!!)


 「さあ、やってくださいイチロウさん。あなたなら出来るはずです」


 「……うぐっ」


 もうやだ、この姉ちゃん……!


 ここで拒否したら拒否したで、「どうしてやらないんですか? やれば出来るのに」と、純粋無垢な善意の暴力で朝まで詰め寄られる未来が目に見えている。


 しょうがねぇな。よし、とりあえず形だけ、やったフリだけ見せて「やっぱり無理でしたー」ってことにして穏便に終わらせよう。


 俺は渋々といった様子で手斧を地面に置いた。


 そして空いた右手で、今さっき見よう見まねで作った『手刀』の形を作り、台座の丸太に向かって、そっと優しく手を振り下ろした。


 ──ストン。


 威力もクソもあったものではない。ただ、そっと木肌に触れただけ。ハエ叩きの方がまだスピードがあるくらいの、完全なる省エネ手刀だ。これで諦めてくれ。


 「……違います。それではありません。イチロウさん、先ほどまで斧を使っていた時のように、全身の力を一点に込めて行うのです」


 ううっ、泣きたい……!


 なんでこの姉ちゃんは、さっきから俺に無茶なことばかり言うの?


 俺、この救護院にやってきてから、この姉ちゃんに嫌われるようなこと何かしたっけ? 挨拶の声がちょっと小さかったとか? 完全に覚えがないんですけど!


 「さあ、イチロウさん。斧を使っていた時と同じように、思い切りやりましょう」


 リエンの視線が、物理的な圧力となって俺の肩にのしかかる。


 チクショウ、もうどうにでもなれ! 形だけで誤魔化せないなら、一発本気で殴って「ほら痛いだけで割れないじゃん!」って物理的に証明してやるよ!


 俺は「お前は薪割りだ!」と脳内でライオンの咆哮ほうこうを上げ、覚悟を決めた。


 そして、斧を使っていた時と全く同じフォーム、全く同じ遠心力で、生身の手刀を硬い丸太へ全力で叩きつけた。


 ──パンッ!!!


 「─────ッッ!?!?!?」


 激痛。


 あまりの激痛に、脳の神経が焼き切れて口から音にならない声が出てきた。


 痛い! 痛い痛い痛い! 割れるかこんなもん! 木だぞこれ! 鉄の斧でも苦労する硬い丸太だぞ! 俺の小指の付け根の骨が完全に消滅したかと思ったわ!!


 悶絶して涙目で自分の手をさする俺を見て、リエンは首を傾げ、顎に手を当てて小さく唸った。


 「んー……。そうじゃないんですけどね。意識の持っていき方がまだ難しいですかね?」


 (難しいとか、そういう次元の話じゃねぇええええよ!! 物理法則を無視してんのはお前の方だろ!! とりあえずお前は、他人の話を聞くという義務教育の基礎から始めろやァアアアッッ!!)


 右手の激痛と、目の前の天然武術バカへの憤怒で、一郎の脳内は完全なパニック状態のまま沸騰するのだった。


 ──その後も、俺はリエンの純粋無垢な善意の暴力によって、何度も、何度も、何度も丸太への自爆特攻をやらされる羽目になった。


 「はい、もう一回!」「力を拳ではなく掌の縁に溜めて!」「さあ、斧になりきるのです!」


 「─────ッッ!?!?(無言の悲鳴)」


 そんな地獄の問答を繰り返した結果、俺の両手は無事に真っ赤に腫れ上がり、指一本動かすだけで激痛が走る「完全再起不能リタイア」の状態へと追い込まれたのだった。


 じゃあ、終わらなかった今日の分の薪割りノルマはどうなったかって?


 ──リエンが全部片付けてくれたよ。もちろん、その生身の「素手」でな。


 パッカーン! パッカーン! パッカーン!


 夕闇の裏庭に、軽快な破裂音がリズミカルに響き渡る。


 リエンはまるでお菓子の袋でも開けるかのような気軽さで、極太の丸太を素手でパッカンパッカンと、それこそオモチャのように叩き割っていった。

 

 その光景を、俺はジンジンと脈打つ両手を抱えながら、白目を剥いてただ眺めていることしかできなかった。人間、本当の化け物を目の前にすると、ツッコミを入れる気力すら失せるらしい。


 ものの数分で山のような丸太をすべて薪に変えたリエンは、ふぅ、と小さく汗を拭うと、俺の方を振り返ってこの日一番の眩しい笑顔を咲かせた。


 「ではイチロウさん、今日のところはこれくらいにしましょう。また明日も『同じ修行』をしますので、よろしくお願いいたしますね!」


 「……」


 爽やかに手を振って、軽やかな足取りで母屋へと戻っていくリエン。


 その背中を見送りながら、俺の耳の奥では、彼女が残していった「明日も同じ修行をします」というフレーズが、どんな魔物の咆哮よりも恐ろしいデスボイスとなって脳内でリフレインしていた。


 明日も? この、骨が粉砕されかける自爆特攻を? またやるの?


 じくじくと焼け付くように痛む自分の両手を見つめ、俺はぽつりと、心の底からの本音を漏らした。


 「……元の日本に帰れないにしてもさ。俺……ここから逃げ出した方が、普通に幸せになれるんじゃないかなぁ……」


 あのクソ婆さんのブラック労働地獄が可愛く思えるほどの、ガチ勢による「超・理不尽な戦闘訓練」。


 異世界ニート・一朗の猶予期間は残り四ヶ月。ついに「救護院からの脱走」という文字がガチで脳裏をよぎり始めるのだった。













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