話が1ミリも噛み合わないまま、地獄の修行(?)が始まる
雲水のリエンという妙に生真面目な尼僧が救護院にやってきて、数日が経った。
その日の午後。一郎がいつものように文句を垂れ流しながら街へ薪を運びに出かけ、裏庭から荷車のゴトゴトという音が完全に消え去った頃──。
母屋の薄暗い一室で、カザンとリエンの二人は、静かに机を挟んで向かい合っていた。
「で、どうだい? あの穀潰しの様子は。あんたの目から見て、何か見込みはありそうかい?」
湯呑みを置き、濁った目線を進めるカザン。その問いかけに、リエンは居住まいを正し、極めて真剣な、どこか感銘を受けたような表情で深く頷いた。
「はい、カザン様。イチロウさんは、とても素晴らしい才能の持ち主でした。私が意念の扱いについて説明を始めるなり、彼は私の言葉を深く理解し、即座にその教えを自らの内へと取り入れ、驚異的な集中力で見事に『強化』を発現させてみせました」
「へぇ……。あの腐れ根性しか取り柄のない坊やがねぇ」
カザンは意外そうに眉を上げたが、すぐにふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「やっぱりあれかね。あたしみたいな声のしわがれたクソババアにどやされるよりは、あんたみたいな若くて綺麗な子から指導される方が、男って生き物は身になるのかねぇ」
「そんな、滅相もありません。カザン様はまだまだお若く、その御力も健在です」
「……クク、そう言ってくれるのは嬉しいけどねぇ」
お世辞を言うリエンに対し、カザンはどこか遠い目をして、己の、節々の浮き出た年老いた掌を見つめた。
「最近は、どうにも身体が思うように動かなくなってきたよ。この前も、ちょっと咳き込んだだけで酷く体力を削られてね……。よる年波ってやつには、どうしたって敵いやしないさ」
「……カザン様……」
リエンの表情に、暗い影が落ちる。
カザンが口にしたのは、冗談でも弱音でもない、残酷な現実だった。
「世間じゃ、僧の数がどこも足りていないんだろう? 何より、まともに『意念』を扱えるような骨のある奴は、近年どんどん少なくなりつつある。……だからさ、あの穀潰しが、少しでも、一歩でもまともな人間に育ってくれれば……この院を任せても良いとは思えるんだけどね」
「──」
「ま、あんな腐れ根性の坊やいつになったら使い物になるか、さっぱり見当もつかないけどね!」
カザンは最後は、豪快にアハハと笑い飛ばした。
だが、その笑顔の裏にある、救護院の子供たちの未来を憂う老人の本物の「祈り」を、リエンは確かに感じ取っていた。
(カザン様……。あなた様が命を削ってまで守ろうとしているこの場所を、あの男に継がせるために、そこまで……)
リエンの胸の奥で、静かに、しかし激しく、熱い感情の炎が燃え上がった。
カザン様が健在な時間は、そう長くはない。ならば、自分がこの院に滞在しているわずかな期間の内に、命に代えてでも、あのイチロウという男を立派な『意念使い』として完成させなければならない。それが、この偉大な先達に対する、自分の務めだ。
リエンの美しい瞳の奥に、めらめらと、恐ろしいほどの熱血修行僧の「炎」が宿る。
──もし、この場に一郎が居合わせ、彼女の脳内思考を覗き見ることができたなら。
間違いなく「超大迷惑だから今すぐその炎を消して荷物をまとめて国へ帰ってくれ!!」と、涙目でヘッドスライディング土下座を敢行していただろう。だが、哀れな三十五歳元ニートは、自分がこれからリエンという名の超新星爆発(勘違い系熱血教師)のターゲットにロックオンされたことなど、一ミリも知らずに荷車を引いているのだった。
「あーーーークソッ! 重てぇな、コンチクショウが! 今日はいつもより坂道がきつかったぞ!」
俺がそんな誰に届くともない呪詛を吐き散らしながら、荷車を引いて救護院の門をくぐった、まさにその時だった。
門の入り口のド真ん中で、リエンが堂々と仁王立ちをしていた。
その顔には、これ以上ないほどに晴れやかで美しい満面の笑みが浮かんでいる。
……誰を待っているかって?
その、獲物を見つけた肉食獣のようなギラギラとした目線の先を見るに、どう考えても俺だ。嫌な予感しかしない。というか、嫌な予感の限界値を突破して、背筋に冷たいものが走っている。
「待っていましたよ、イチロウさん! さあ、今日も張り切って『修行』へと参りましょう!」
修行ってなに!? 何を突然、この綺麗なお姉さんはスピリチュアルなことを言い出しているの!?
俺は本気で意味が分からず、周囲にいた子供達に「おい、何なんだよこれ、助けてくれ」と必死の視線を送った。だが、子供達は子供達で、完全に未知の生物を見るような目で「いや、俺たちに振られても分からんし……」と言うように、一斉に首を傾げて後ずさりしていった。裏切り者め!
「さあ、さあ、さあ! 行きますよ、イチロウさん!」
「ひっ、待っ……、ちょっと待っ……!」
怖い。何なんだよ、この人の凄まじい『圧』は!
この人の何がそんなに彼女を駆り立てているのか知らんけど、尋常じゃない熱量が身体から溢れ出ていてめちゃくちゃ不気味で怖いんだけど!
「さあ、行きますよ」と有無を言わさぬ腕力でガシッと俺の手首を掴むと、リエンはそのまま俺を引きずり回すようにして、いつもの裏庭へと連行した。
連れてこられたのは、見飽きるほどに見慣れた、あの泥臭い薪割り場だ。
そして──はい、と。リエンは俺の手のひらに、いつもの使い古された手斧を握らせてきた。
……どういうことだってばよ!?
この斧で俺に何をしろと? 修行とか大層なことを言っていたくせに、この刃こぼれした斧を使って、一体どんなオカルトな特訓をさせる気なんだよ!
俺の脳内はすでに混乱の極みに達し、パニックで心臓がバクバクと鳴り響いていた。しかし、リエンはそんな俺の動揺など一切気にする風もなく、優しく、しかし絶対的な命令のトーンでこう告げたのだ。
「さあ、イチロウさん。早く『薪割り』を始めてください」
「……は?」
……???
修行なの? それともただの仕事なの? どっちなのよ!!
何かすごい武術の型とかを教わるのかと身構えていた俺は、完全にハシゴを外された気分だった。だが、リエンの目が「早くやれ」と物理的な光を放って脅してくるので、俺はとりあえず言われた通りに、いつも通りの、あの最高に嫌いな薪割りの作業を始めることにしたのだった。




