三十五歳、美女の講義を環境音(BGM)にする
その日から、リエンという名の僧──この世界の場合、女性だから尼僧にそうと呼ぶべきか? ──が、この救護院に寝泊まりするようになった。
住むと言っても一時的なものらしい。子供たちからの又聞きによると、彼女は『雲水うんすい』と呼ばれる放浪の身で、各地をあちこち旅しながら、その高い武力で人々を助けて回る「僧兵」のようなことをやっているらしい。
……まぁ、「らしい」というのは、全部俺が本人から直接聞いたわけではなく、子供達が騒いでいるのを小耳に挟んだだけだからだ。
だからぶっちゃけ、本当のところはよく知らん。というか、そんな新入りの素性を邪推している暇なんて、今の俺には一秒たりともないのだ。
「とにかく、早くこのクソノルマを終わらせねぇと、今日も暗闇居残りで白目を剥く羽目になる……!」
俺は手斧を強く握り直すと、余計な思考をすべて頭から叩き出した。
トスン、スパコーン! トスン、スパコーン!
裏庭に、丸太が小気味よく両断される音が一定のリズムで響き渡る。
無心。ただ、無心。
余計なノイズをシャットダウンし、斧の重みと筋肉の駆動だけに意識を同調させ、機械のように薪を量産していく。
そうして完全に自分の世界ゾーンに入り込んでいた、その時だった。
「……なるほど。無自覚ながら、すでに『強化の初段階』に突入しつつあるのですね」
「うおっ!?」
すぐ側から響いた鈴を転がすような静かな声に、俺の思考は一気に現実に引き戻された。
誰だ!? と驚いて斧を止め、大袈裟に振り返ると、そこにはいつの間にか旅装束から動きやすい道着のような服に着替えた客人、リエンが佇んでいた。
なんだよ、脅かすなよな。俺が何か用か、と眉をひそめて尋ねると、彼女は切れ上がった美しい瞳で俺の全身を品定めするように見つめながら、問いかけてきた。
「あなたは、ええと……」
「一郎だ。イチロウ」
「イチロウさん。あなたが『意念いねん』を覚え始めてから、どれくらいの期間が経ちますか?」
イネン?
質問の意図がさっぱり読めない。というか、質問の意味自体がよく分からん。だが、とりあえずこの世界(救護院)に来てからの期間を聞かれているのだと解釈し、俺は首を傾げながら答えた。
「こっちに来てから、あの婆さんに無理やり身体を動かされるようになってからだから……だいたい二ヶ月くらいか?」
「──二ヶ月、ですか」
リエンは一瞬、息を呑むように目を見開いた。そして、何かに深く納得したように小さく頷く。
「……なるほど。わずか二ヶ月で初段階への適応を。カザン様が仰る通り、あなたには確かな『才能』があるようですね」
あのー、さっきから何なのこの美人?
さっきから一人で納得して、俺の邪魔をしてるわけ? それとも、見知らぬ土地にやってきて退屈だから話し相手が欲しいの?
だったら俺じゃなくて、あのクソ婆さんの部屋にでも行って茶でもしばいててくんねぇかな。こっちとら見ての通り、命懸けの残業を回避するために死ぬほど忙しいんだよ。
俺の「早くどっか行ってくれ」という露骨に迷惑そうなオーラを察したのか、リエンはハッとしたように表情を和らげた。
「ああ、申し訳ありません。お邪魔をしてしまいましたね。どうぞ、お続けください」
綺麗に頭を下げるリエン。
よし、分かればよろしい。と、俺が再び丸太に向き直ったのだが──なぜか、彼女はその場から一歩も離れようとせず、少し離れた位置からじっと俺の手元を見つめ続けている。
……いや、何? どういうこと?
まさかこの俺に一目惚れして、働く漢の背中に見惚れてるとか……いや、ない。一億パーセントそれはないことだけは、あの冷徹なまでの視線からビンビンに伝わってくる。
あれはどちらかと言うと、顕微鏡で未知のプランクトンか何かをじっくりと「観察」しているような、恐ろしく理知的で冷ややかな目線だ。
(……俺、なんか変なことしたか……?)
背中に突き刺さる美女のプレッシャーに冷や汗をかきながら、俺は再び、最高にやりづらい環境の中で斧を振り下ろし始めるのだった。
トスン、スパコーン! トスン、スパコーン!
じっと背後から見つめられ、やりづらさに冷や汗を流しながらも、俺はリズムを崩さずに斧を振り下ろし続けた。すると、ずっと黙って観察していたリエンが、唐突に凛とした声で喋りだした。
「イチロウさん。あなたには素晴らしい才能がお有りのようですが……いまだその力の『使い方』を正しく認識していませんね」
……うん。何だ、この人。
いきなりこっちの都合も無視して、塾の講師みたいなトーンで大真面目な説明に入りやがったんだけど。俺にどうしろと?
「いや、あのね。俺、いま絶賛薪割り中──」
「『意念』とは、己の精神と生命の力を外へと引き出し、カタチ成す技術のこと──」
人の話を聞かねぇ姉ちゃんだなオイ!!
こっちは残業回避のための神聖な仕事中だって言っとるだろうが!
「そのため、雑念の中で無理に力を絞り出すよりも。今のアナタのように、ひとつの物事に深く集中して行うことの方が、力の路を拓くには適しているのです」
あー、もういいや。めんどくせぇ、放っておこう。
反論するだけ時間の無駄だ。それよりも一秒でも早くこのノルマを終わらせて、一秒でも長く布団の中で寝たい。
無心だ。無心の心だ。無の呼吸、無心の心……。
俺はリエンの声を完全に環境音(BGM)として右から左へ受け流し、すうっと意識を再び丸太の木目へと集中させて、狂ったように手斧を動かし始めた。
そんな俺の驚異的な「切り替えの早さ(無視)」を見て、リエンはなぜか深く感心したように声を弾ませた。
「はい、それです! その調子です、イチロウさん! そのまま、心の内側に集まる力をじっくりと溜めていき、明確な意思をもって操るようにしていきなさい。それは、ご自身の腕や足を動かすのと全く同じ感覚です」
知るか! リエンの言葉なんてこれっぽっちも耳に入ってこねぇよ!BGMだ気にすんな俺!いまの俺はただひたすらに薪を割る機械となるのだ!お前は薪割りだ!薪割りになるのだ!ガオー!
俺はひたすらに薪を割る。トスン、スパコーン、トスン、スパコーンと。
──この時、俺自身は知る由もなかったのだが。
ただの労働だと思い込んでいた俺の身体には、今まさに、決定的な「変化」が起き始めていた。
俺が斧を振り下ろすたびに、汗ばんだ腕の表面、いや、全身の皮膚から、うっすらと淡い光の粒子が立ち上り、まるで夕闇の中で発光体のように優しく煌めいていたのだ。
「……見事です。それこそが、意念の基礎にして奥義──『強化』です」
リエンの瞳が、確信に満ちた熱を帯びる。
「『強化』とは、自らの肉体や精神そのものを底上げし、強める意念。……意念の分類は、これだけではありません。他にも炎や風を呼び起こし、武器や防具といった物質を無から形作る『現象』。そして、精神の波動を放って直接相手の心を侵し、狂わせる『心蝕しんしょく』があります。これらは互いに優劣を持つ『三竦み(さんすくみ)』の関係になり──」
暗くなり始めた裏庭に、リエンの熱のこもった解説が響き続ける。
俺はその有難い授業を「なんか後ろでずっとブツブツ言っててうるせぇな」としか思わず、ただ無心で丸太を叩き割り続けるのだった。




