意念天元流のリエン
──知らぬ間に、朝の水汲みで運ぶ瓶の数が、ひとつからふたつに増えていた。
両手にずっしりとかかる重量。だけど、今の俺の腕はもう、あの最初の頃のように無様にプルプルと震えることはない。
荷車での薪運びだって、相変わらず「ひぃ、ひぃ」と情けない声を出しながら引いてはいるが、売り場のおじさんと「今日は良い天気だね」「そうだな」なんて世間話ができるくらいには、呼吸が乱れなくなっていた。
夜の闇の中で行う居残りの薪割りだって、相変わらず日が暮れるまではかかるものの、それでも少しずつ、確実に早く終わるようになっている気がする。
毎日、ただクソ婆さんに脅されて、子供達に介護されながら泥水をすする思いでこなしてきた地獄のルーティン。
だけど──その蓄積していくモノのすべてが、少しずつ、確実に俺の血となり、骨となっているのを、今の俺ははっきりと実感していた。
「どうだい? それが『努力の成果』ってやつさ。少しは身体の動かし方がマシになったろう」
後ろから、いつものように上から目線でクソ婆さんが言葉を吐き捨ててくる。相変わらず一言多いのが腹立たしい。
「……まぁ、そうだな。前の死にそうだった頃に比べりゃあ、マシかもな」
俺はふいっと顔を背け、納得していないような、素直じゃない声を婆さんに返した。だけど、自分の掌にできた無数の肉刺を見て、胸の奥がほんの少しだけ熱くなるのを止められなかった。
そんな、ある日のことだった。
子供達と婆さん、そして俺しかいないはずのこの寂れた救護院の門を、一人の女性の客が訪ねてきた。
「すみません。こちらの院長さんはいらっしゃいますでしょうか?」
丁度、街の薪売り場からヘトヘトになって帰ってきた俺は、門の前でその人とバッタリかち合う形になった。
見慣れない旅装束に身を包んだ、凛とした佇まいの美女だ。元の世界の基準でもかなりの美人の部類に入るだろう。ニートの悲しい習性で一瞬だけドギマギしたが、今の俺は異世界労働で鍛えられたおっさんだ。すぐにいつもの大声で対応した。
「婆さんか? ちょっと待っててくれ。──おーーーい、婆さん!! 客だぞ! 誰か来たぞ!」
院の母屋に向かって、近所迷惑も顧みずにでかい声を張り上げる。
しばらくすると、バタンと乱暴に扉が開き、いつも通り不機嫌そうな表情を顔面に張り付けた婆さんがのそのそと表に出てきた。
「なんだい、うるさいねぇ。そんなでかい声を出さなくても聞こえてるよ、この穀潰……。……うん? お前さんは……」
文句を言いかけた婆さんの動きが、ピタリと止まった。その年老いた眼眸が、驚きにわずかに入り混じる。
婆さんの知り合いだろうか。すると、女性の客はスッと背筋を伸ばし、胸の前で綺麗な合掌の印を組んで、静かに頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私、──『意念天元流』を修めし雲水(放浪僧)の、僧名をリエンと申します」
その厳かな名乗りに、俺の脳の片隅が奇妙に呼び反応した。意念天元流? どこかで聞いたような……。ああ、意念ね。すっかり忘れてたわ。
だが、俺の思考を遮るように、婆さんもまた、いつもの荒々しさを削ぎ落とした真剣な所作で、胸の前で同じ合掌の印を組み直した。
「……あたしは、この院を任されてる僧名カザンだよ。──で、いつまでそこに突っ立ってるんだい! さっさと荷車を裏に片付けな!」
「ひぎゃっ!? はいっ、ただいまッ!」
突然怒鳴られた俺は、脱兎の如き勢いで「ひぃこら」と言いながら荷車を引っ張り、院の奥へと退避していった。あの婆さん、客の前でも容赦ねぇな!
そんな俺の情けない後ろ姿を静かに見送っていたリエンが、小さく小首を傾げて婆さんに尋ねた。
「……あの方は、こちらの、お手伝いさんですか?」
「手伝いと言えば手伝いだね。まぁ……図体だけ無駄にでかい子供を一人、わけあって預かってるのさ」
婆さんは小さく息を吐くと、リエンの瞳をじっと見つめ、どこか真剣な、しかし諦めを含んだトーンで言葉を続けた。
「──そうだ。あんたにその気があるなら、あの穀潰しを、少し『見て』くれちゃくれないかい?」
「……ご自身でお育てにはならないのですか、カザン様」
「よる年波には勝てなくてねぇ。……素材としての才能は、まぁ、ありそうなんだけどさ。なにしろ根っから根性が腐ってるような奴だ。それを踏まえて、適当に相手をしてやっておくれ」
リエンは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように微笑み、再び頭を下げた。
「わかりました。私がここに滞在させていただく間のこととなりますが、お相手いたしましょう」
「ああ、構わないよ。好きなだけ居な。大したもてなしは出来やしないけどね」
裏庭で薪を降ろしていた俺は、表門のところで、自分のこれからの運命(地獄のステップアップ)を決める恐ろしい密約が交わされていることなど、一ミリも知る由がなかった──。




