困った時の問題先送り(頑張れ、未来の俺!)
──ガラガラと、朝から救護院の敷地全体が妙にそわそわとした、独特の熱気に包まれていた。
この光景には見覚えがある。いつもなら朝の雑用を前に気だるそうな目をしている子供達が、どいつもこいつも朝から目をキラキラと輝かせ、獲物を狙う獣のように殺気立っているのだ。
そうか。気がつけば、またあの月に一度の「肉の日(解体ショー)」がやってきたのだ。
ということは、だ。
「……そっか。俺もこの世界に、あのクソ婆さんのところにパンツ一枚で放り出されてから、もう二ヶ月近く居るってことか」
井戸の側でふと呟き、俺は自分の手のひらを見つめた。
最初の約束では、ここに居ていいのは「半年(六ヶ月)」の間だけ。その猶予が、もう三分の一、いや半分近く終わろうとしている。
正直、焦りがないと言えば嘘になる。だけど、何しろ毎日毎日、あの婆さんから課せられる過酷なトリプル労働(水汲み・薪運び・薪割り)のせいで、他の生きる道を模索するだけの体力も気力も、一日の終わりには一滴すら残っちゃいないのだ。
はっきり言って、残りの数ヶ月なんてあっという間に過ぎ去って、俺は何のスキルも得られないまま「はい期間終了、出てってね」と無慈悲に荒野へ放り出される未来しか想像できない。
「……かといって、今の俺に何か他にできるわけでもないしな」
うん。とりあえず、考えるのは止めよう!
困った時の問題の先送りだ。きっと未来の俺が、超がんばってなんとかしてくれるに違いない。頑張れよ、未来の俺! 期待してるぞ!
自分の人生のことなのに完全な他人事で済ませ、現実逃避の清々しい笑顔を浮かべていると──、
「ゴホッ、ゴホッ……。ゲホッ、クソ、忌々しいねぇ……」
背後の母屋から、酷く濁った、苦しそうな咳き込みの音が聞こえてきた。
誰か子供でも風邪を引いたか? と思いながら、音のした方へ視線を向けると──俺は思わず目を見開いた。
そこにいたのは、あの人間大砲みたいなクソ婆さんだった。
婆さんは険しい顔で胸を押さえ、苦そうに顔をしかめながら、怪しげな液体の入った薬瓶を煽っているところだった。
「……なんだい? 穀潰し。人の顔をまじまじと見おって。見世物じゃないよ」
俺の視線に気づいた婆さんが、薬瓶を懐にしまいながら、いつものようにドスの効いた声で睨みつけてくる。
「いや……風邪か? あんたもいい年寄りなんだから、少しは身体に気を付けろよ」
「はん! 穀潰しに心配されるほど、あたしはまだ落ちぶれちゃいないよッ!!」
婆さんの瞳孔がカッと見開かれ、いつものように周囲の空気を圧搾するような、すさまじい気迫の波動が俺に向かって放たれた。
「そうですね! だからそれ止めてください!!」
俺はいつものように即座に腕でガードを作って叫んだ。叫んだ、のだが……。
(……ん? ……あれ?)
腕を下ろし、自分の身体を恐る恐る見つめてみる。
おかしい。今までは、婆さんのあの本気の気迫を正面から食らったら、心臓が跳ね上がり、恐怖のあまり本気でションベンをチビりそうになっていたのだ。威圧感だけで、文字通り平伏させられていた。
なのに、今──俺の心臓は、驚くほど静かに脈打っている。
確かに凄いプレッシャーだったが、「耐えられないほどではない」のだ。
「おお……っ! もしかして、俺もついにこの理不尽な異世界に……いや、毎日の地獄の労働に適応してきたってことか!?」
婆さんの恐怖のオーラにすら耐性がつくなんて、俺の肉体と精神の進化、凄すぎないか!?
……まぁ、冷静に考えて「労働への適応」なんて、元ニートとしては一ミリも嬉しくない、むしろ絶望的な退化(社畜化)のような気もするんだけどさ。
そして肉が、到着した。
「くそぉおおお!! 鳥じゃねぇのかよ! 今度は何なんだ!? 豚か! 猪か! っていうか何だこのバケモノはァアアアッッ!!」
俺の目の前にドスンと横たえられていたのは、前回のニワトリなんて可愛いものが一瞬で脳裏から消し飛ぶような、巨大な獣の亡骸だった。
全体のシルエットは四足歩行の動物なのだが、何より異常なのはその顔面だ。前面にある鼻の組織が、まるで戦場で使う鉄の盾を思わせるように異常な進化を遂げており、大きく、かつ分厚く肥大化している。さらに口元からは、中世の突撃騎士が構える大槍のような、禍々しい一対の巨牙が前方へと鋭く伸びていた。
完全にスーパーのパック肉しか知らない現代人の処理能力を超える造形を前に、俺が白目を剥いていると、周囲の子供達が狂喜乱舞の声をあげた。
「やったあぁあー! 今日はタウボルクだ!!」
「こいつは最高だぜ! めちゃくちゃ旨いんだよな!」
たう……タウリン?
いや、確かに毎日これだけ過酷な労働をさせられてるから、タウリン3000mg配合の栄養ドリンクとかは喉から手が出るほど欲しいけど、ん? そうじゃない? タウボルクって何だよ!?
「何言ってんだおっさん、魔獣だよ。魔獣の肉は、普通の森の獣と違って、すっごい旨いんだよ!」
「なんで旨いのかの詳しい理由は知らないけどね!」
「とにかく、今日は『肉の日』でも最上級の大ごちそうだァアア!」
子供たちの喜びようは半端じゃなかった。前回のニワトリの時の熱気が「そわそわ」だとしたら、今回は完全に「暴動」の一歩手前だ。
まぁ、とにかく絶品であることだけは分かった。分かったが……ということは、だ。
こんな装甲車みたいな見た目をした巨体を、これから解体しなきゃならんのだろう? ──一体、誰が?
「俺たちに決まってるじゃん。ほらおっさんも突っ立ってないで、早く刃物持って手伝って!」
「えええええ……!? いや、あの、これ、現代日本の温室育ちの俺には普通に物理的にも倫理的にも無理な作業じゃないでしょうか!?」
「肉が食いたきゃ四の五の言わずに手伝えーーーっ!」
「……っ、はいはい! やりゃあ良いんだろうやりゃあよお、コンチクショウッッ!!」
前回の俺なら、ここで間違いなく腰を抜かしてシクシクと嘘泣きを始めていただろう。だが、この二ヶ月間でクソ婆さんに鍛え上げられた(調教された)俺のメンタルは、知らず知らずのうちにヤケクソ気味の頑丈さを手に入れていた。
俺は小さめの鉈のような包丁を逆手に握りしめると、雄叫びをあげながら子供達の狂乱の解体ショーへと突撃した。
「痛っ! ちょっとおっさん下手くそ! 皮を剥ぐ時はもっと肉を削がないようにしなよ、もったいないだろう!」
「一切れも無駄にするな! タウボルクの肉は高級なんだぞ!」
「うるせぇえええ! だったら最初から素人の俺にやらせんなぁあああああッッ!!」
血気盛んな子供達の容赦ない怒声と文句に、俺も全開のキレ芸で怒鳴り返す。
飛び散る血飛沫、飛び交う罵声、しかしその根底にあるのは、強烈なまでの「肉への欲望」。
己の手が真っ赤に汚れることへの感傷など、今の俺には一ミリもなかった。ただひたすらに、目の前の魔物の肉を分捕るためだけに、俺は子供達と肩を並べて一心不乱に刃物を動かし続けるのだった。




