働けど働けど、我が仕事は終わりが見えず
──結論から言おう。人間、限界を超えると知恵が働く。
昨日の「水汲み+荷車引き+薪割り」のトリプルコンボで完全に身体が消滅しかけた俺は、今朝、実に見事な仕上がりの「仮病」を発動させ、ボロ布の布団の中で幸せな惰眠を貪っていた。
「うう……頭が割れるように痛いよ……。熱もある気がするよ……。これは間違いなく異世界特有の未知の感染症だ、絶対に動けないぞ……」
これならどれだけブラックな職場でも休まざるを得まい。フフ、勝ったな。風呂は行ってくる。そう確信して目を閉じた、まさにその直後だった。
「さっさと起きて仕事しなッ! この穀潰しがぁ!!」
ドガッッ!!! と、我が人生で味わったことのない衝撃が脇腹に走り、俺の身体は布団ごと床を何メートルか滑っていった。
クソ婆さんの容赦のない目覚ましのローキックである。感染症(仮病)は一瞬で完治した。
結局、俺は泣く泣く布団から引きずり出され、いつも通りの、いや、昨日からさらに過酷さを増した労働地獄へと叩き落とされることになった。
泣きながらの朝の水汲み。味がしない雑炊の泥水のような飯。子供たちに介護されながらの薪売り場への荷車引き。そして救護院へ帰還した直後の、疲労困憊の限界を超えた状態での居残り薪割り。
「はぁ……、はぁ……。……あれ?」
気がつけば、周囲は完全な闇に包まれていた。手元すらおぼつかないほど真っ暗で、丸太の輪郭が辛うじて見えるかどうかというレベルだ。
「……もう何も見えないんだし、今日はこれくらいでいいよね? だって暗いし。危ないし。うん。これはもう、俺に『早く寝なさい』と告げている神様の思し召しに違いねぇ──」
「終わらなかった分は、明日『倍』やっときな。いいね」
「ひぎゃああああッ!?」
背後から突然響いた低音ボイスに、俺の心臓は本気で止まりかけた。
……ホントなんなのこの婆さん!? なんでいつも俺がサボろうとする絶妙なタイミングで、音もなく真後ろに現れるんだよ! 怖ぇよ! スタンド使いか何かかよ!!
「……ちくしょお……」
俺は「明日倍」という絶望的なノルマに絶望しながら、重い鉛のようになった身体を引きずって寝床へと戻った。
ううっ、身体中が痛いよぉ……。お腹はめちゃくちゃ減ってるはずなのに、全身の疲労が強すぎて気持ち悪くて、メシを口に運ぶ気力すら起きない。本当に明日死ぬかもしれない。三十五歳、異世界で過労死の二文字が脳裏をよぎった時、暗闇の中で同室の子供が声をかけてきた。
「おっさん、大丈夫? ……これ、付けると少しは身体の痛みが取れるよ」
「……え?」
差し出されたのは、小さな木箱に入ったドロっとした軟膏のようなものだった。
俺は藁にもすがる思いでそれを受け取ると、悲鳴をあげる身体に鞭を打ちながら、痛む筋肉のすべてにその薬を塗りたくり、そのまま泥のように深い眠りへと落ちていった。
そして、翌朝。
(……ん……? あれ……?)
パチッと目が覚めた瞬間、俺は奇妙な違和感に気づいた。
爽快、とまではいかない。いまだに身体の節々は重い。だけど──昨日まで俺を絶望の淵に叩き落としていた、あの焼き付くような筋肉痛と、芯から残っていた疲労困憊な感覚が、劇的に軽減されていたのだ。身体が、動く……ッ!
「おお……すげぇなこれ。信じられないくらいめちゃくちゃ効いたよ! おい、ありがとな!」
俺が跳び起きて同室の子供に感謝を伝えると、そいつは少し照れくさそうに笑った。
「よかったです。それ、本物の『魔物狩り』の人が使う高い軟膏なんだよ。凄い傷薬としても使われてるんだ」
「へぇ、そうなのか。そんな貴重なもの、よくお前持ってたな」
「うん。昨日、院長先生から『あの穀潰しに塗ってやりな』っていただいたんだ」
「……」
子供の無邪気なその言葉を聞いた瞬間、俺の言葉はピタリと止まった。
脳裏に浮かぶのは、あの冷酷無比で人間大砲みたいなクソ婆さんの顔だ。
あの婆さん……俺を限界まで酷使しておきながら、裏ではこうして、壊れないようにちゃんと手を回していたのか……?つまりもっと働けと?
働けど働けど我が仕事は終わりが見えず、じっと手を見る──いや、見るべき手すら真っ暗で見えねぇよコンチクショウ!
水汲み、薪運び、薪割りと、一度に三つもの仕事を枷として背負わされた俺の毎日は、完全にキャパシティを超えていた。
二つの仕事だけだった時は、あんなに必死に脳内でバカをやって無心になれば、どうにか日のある内に終わらせられていたのだ。なのに、今はどれだけ死に物狂いで身体を動かしても、気がつけば日が暮れて夜になり、それでもなお終わりの見えない丸太の山が目の前に鎮座している。
おまけに、荷車を引っ張っていった先の薪売り場のおじさんには、
「ん? どうかしたのかい。ここのところ持ってくる薪の量が随分と少ないじゃないか」
なんて心配そうに言われる始末だ。
(頑張ってるんです……! 俺なりに、死ぬ気で頑張ってるんです……っ! だからみんな、そんなに俺を責めないでくれ! 頑張りの基準なんて人それぞれなんだからさぁあ!)
そんな惨めな悲鳴が心の中で木霊する。
「……くそ、もう暗いんだから、本当に止めたいよぉ……」
ポツリと弱音が口から漏れる。手元が暗くて、斧をどこに振り下ろしているのかすら分かりづらい。危なくてしょうがない。
だけど、今日これを途中で投げ出したら、明日には婆さんの言った通り「倍のノルマ」になって俺の首を絞める。まさに完全な悪循環だ。
(なんで俺、こんな異世界でこんなことやってるんだろうな……)
そんな根本的な疑問が、最近は毎日、夜の静寂の中で頭をもたげるようになっていた。
でも──ここから逃げ出したところで、一体何になる?
行く宛なんて、この広い世界のどこにもない。元の日本に帰れる保証なんて、どこを探したって一枚も落ちちゃいないんだ。
考えれば考えるほど、思考は暗い泥沼のような堂々巡りを始め、底なしの鬱に落ち込んでいきそうになる。
「……ダメだ。考えるな。落ち込むと、さらに動けなくなる。……考えたら負けだ。無心だ、無心になれ!無の呼吸、無心の心……!」
俺は思考を強制的にシャットダウンした。
辛い現実からも、見えない未来からも目を背け、ただ、目の前にあるはずの丸太に向かって、機械のように一定の滅茶苦茶なリズムで手斧を振り下ろし続ける。
サクッ、パンッ、サクッ、パンッ。
余計なノイズをすべて削ぎ落とし、ただ闇の中で己の筋肉の動きと、斧の重みだけに意識を集中させていく。
そうしてどれだけの時間が経っただろうか。
ふと、奇妙な感覚が俺を包んだ。
(……あれ?)
真っ暗闇で何も見えないはずなのに、ぼぅと、だが確実に、目の前にある薪の輪郭や、木目の細かな凹凸が「はっきり」と立体的に見えるようになってきたのだ。
「……んん? なんだ……? 夜目に慣れた、のか?」
一瞬、自分の視力が急激に良くなったのかと思ったが、おっさんの肉体が短期間で進化するわけがない。きっと人間の秘められた生存本能が、暗闇に適応しただけだろう。
「まぁいいや。……それでも危ないから、あと数本だけ割ったら、もう今日は寝よう」
今日も、あの引き出しにしまってある魔物狩り用の軟膏のお世話になるとしよう。あれのおかげで、明日もなんとか生き延びられる。
「はぁ……。早く、何も働かなくていい楽な暮らしがしたいなぁ……」
腕に走る不思議な充実感と、視界に広がる奇妙に鮮明な夜の景色を、ただの「体調の錯覚」だと信じ込んだまま、俺は相変わらずニートへの未練をパサパサの口から溢れさせるのだった。




