恥なんてものは、パンツ一枚になった瞬間に置き忘れた
その日の朝、婆さんは俺の朝食を取り上げんばかりの勢いで、新たな「指令」を突きつけてきた。
「穀潰し。あんた、今日から薪売り場に行ってきな」
「──いやです。そんなのやりたくな……っ、すみませんすみません! やります! やりますんで、そのおっかない気迫を止めてくださいッ!」
婆さんの瞳孔がわずかに収縮し、周囲の空気がビリビリと震えた瞬間に俺は全力で謝罪した。殺気だけで人を殺せるという伝説の類いかよ。
「なんで素直に最初から『やります』って言えないんだろうね、この穀潰しは」
「……はぁ、はぁ。いや、仕事が増えるんだぞ? 嫌に決まってるだろ。だいたいなんで増やすんだ。まだ薪割りだって、ようやく終わるようになったばかりで、毎日クタクタなのに」
俺は小さく、しかししっかりと聞こえる程度の音量でぶつくさと不満を零した。すると婆さんは、呆れたような、しかしどこか含みのある笑みを浮かべてこう言った。
「少しは身体が慣れてきたろう。同じことの繰り返しじゃ体の成長を止めるよ。適度に他の事もやらないとね、今度はそれに慣れっぱなしになっちまうよ」
「慣れてねぇよ! 毎日筋肉痛で身体が悲鳴をあげてるわ! むしろ作業を減らしてくれって言いたいぐらいで……っ! すみません! すみません! だからそれ止めてください!」
再び空気が重くなり、俺は脊髄反射で平伏した。二度あることは三度あると言われるが、三度目は物理的に魂が抜ける気がする。
「……ふぅ。疲れることやらせんじゃないよ。とにかく良いね。あんたは水汲みが終わったらそのまま薪売り場に行き、そこで薪を置いて、新しい木材を受け取ってきたら戻ってきな。その後に薪を割るんだ。分かったかい」
「……場所は? 薪売り場の場所なんて知らねぇよ」
婆さんは、今日一番深いのではないかという深いため息をついて、俺を軽蔑の眼差しで見下ろした。
「……ここにこれだけいて、まだそんなことも知らないのかい。あんたは一体なにやってたんだい」
毎日、過酷な労働で精神をすり減らして、外を散歩する気力なんて残っているわけがないだろうが! と喉元まで出かかった。
だが、さすがに短時間で三回もあの「殺気という名の暴力」を食らうのは、三十五歳の俺の心身には限界がある。俺は無言で地面を凝視し、必死に罵倒を飲み込んだ。
(……チクショウ……! なんだよ、この理不尽な世界は……)
俺は弱くねぇ! あんな人間大砲婆さんの殺気を正面から食らって、なお心折れずに文句を言っている俺は、ある意味最強クラスのメンタルを持っているはずだ!
そう、あれを食らったことがある奴だけが、俺に石を投げる権利がある!
「まったくあのクソ婆さんめ、人がせっかく新記録を達成したってのによぉ。それを見計らったように仕事増やしやがって……!」
俺はぶつぶつと呪詛のように愚痴を呟きながら、昨日自分で割った薪を裏庭の荷車へと載せていた。
載せていたのだが……木の板を車輪で繋いだだけの、前時代的でボロい木製のカートだ。
「おいおい、これって時代劇とかで見る大八車ってやつか? もうちっとマシなサスペンション付きのないのかよ、この世界は」
はっきり言って、ただ載せただけでは薪が安定しない。道に出た瞬間にポロポロと崩れ落ちる未来が視覚的に見えている。どうしたものかと俺が荷車の前で腕を組んでいると、後ろから子供達がやってきた。
「おっさん、ただ載せるだけじゃダメだよ。この縄で縛るんだ。ほら、こうして」
子供達は数人で声を掛け合いながら、力を合わせて荷車の薪にグルグルと縄を巻き付け、手際よく強固に固定していく。すげぇ、迷いが一切ない。職人の手際だ。
「よし、これで大丈夫。じゃあおっさん、あとはよろしくね」
「よろしくじゃねぇよ! さっき婆さんにも言ったろ、俺は薪売り場の場所を知らねぇんだってば!」
そのまま作業を終えて立ち去ろうとする子供達の背中を、俺は慌てて引き留める。すると一人の子供が面倒くさそうに振り返り、口早に説明を始めた。
「えーっとね、この救護院の前の道を真っ直ぐ行って、五軒目の建物を右に曲がって、そこから四軒先の家を左に曲がって、それから──」
「待て待て待て待て! 覚えられるか! 現代社会の利器、GPSでも持ってこい!」
スマホのナビなしでは一歩も歩けない現代人ニートを舐めるなよ。
俺の脳内パニックの叫びに、子供達は「はぁ……」と呆れたような、明らかに自分たちより年上のおっさんを下に見た眼差しを向けてくる。
クソォ、いまに見てろよ。そのうち絶対にギャフンと言わしちゃる……!
そんな子供っぽい妙な決意を胸に秘め、俺は荷車の取っ手を握りしめ、前へと身体を傾けて──、
「お、おおっもッッ!!???」
──ビクともしない。
あまりの重量感に、一センチたりとも車輪が動かなかった。おい嘘だろ、地面に根っこでも生えてんのかこれ!?
「……おっさん、何そこで顔を真っ赤にして遊んでんだよ?」
「遊んでねぇよ! 重すぎて、び、微動だにしないんだよッ!」
「……ウソだろう? 俺たち、毎日これ二人で売り場まで運んでるんだぞ?」
「……」
子供の放った、これ以上ないほどピュアで、そしてこれ以上ないほど残酷なド正論が、俺のプライドを粉々に粉砕した。
子供二人で運べるものを、三十五歳の成人男性が動かすことすらできないなんて、そんな悲しい現実があっていいわけがない。
(……ク、クソォ……! いまに見てろよ本当にぃいいいッ!!)
本日二度目の流れていない涙を心で拭いながら、俺は歯をガチガチと鳴らし、全体重を荷車へと預けるのだった。
「ふんぬぅぅううううううっっ!!! ふしゅるるるるるるぅううう……ッ!!」
「……ねぇおっさん、何その不気味な掛け声? 怖いんだけど」
「掛け声じゃねぇよッ! 全力で酸欠になりそうだから、必死に息を吸って吐いてるだけだろがぁあッ!」
結局、子供達に後ろから押してもらい、俺が前で引っ張るという世にも情けないスタイルで、荷車はなんとか動き出した。だが、一歩進むごとに俺の口からは人間が発していいとは思えない奇妙な排気音が漏れ出てしまう。
「いや、どう聞いても変な掛け声にしか聞こえないよ。ほら、すれ違う町の人たちだって、みんな奇妙な目でこっち見てるじゃん。……あのさ、俺たちちょっと離れて歩いていい? 知り合いだと思われたくないんだけど」
「ふざけんなッ! お前らが離れたら、俺はこの大鉄塊(荷車)を二度と動かせねぇぞ! ここにブツを不法投棄して俺だけ逃げるぞ! それでも良いのか!?」
「いまだかつて、子供に向かってそんな最低の脅しをしてくる奴、見たことも聞いたこともないよ。おっさん、大人として恥ずかしくないの?」
子供の痛烈な一言が、俺の胸に突き刺さ──るわけがなかった。
「うるせぇーーーいッ!! 恥なんて高尚な物はなぁ! この世界にパンツ一枚の姿で降り立ったその瞬間に、元の世界に置き忘れてきちまったんだよッ! 俺の服と一緒になぁあああ!!」
ドヤ顔で言い放った俺の「最強の過去(黒歴史)」に、荷車の後ろを歩く子供達は、お互いに顔を見合わせて深くため息をついた。
「……やっぱり、院長先生が言う通りだね。おっさんの言うことは、俺たちには難しすぎてよく分かんねぇや。とりあえず……元気に生きろよ、おっさん」
「親戚の法事でしか聞かないような薄い言葉で俺を励ますなァアア! とりあえず今は言葉じゃなくて肉体で示せ! 押せ! も、もう俺の腕のライフが限界に達するぞ……ッ!」
「はいはい、あと少しだから頑張れよおっさん。ほら、がんばれー。おっさんがんばれー」
一ミリも心のこもっていない、完全なる棒読みの応援の声を背中で聞きながら、子供達は渋々と荷車の後ろから手を添えて押し始める。
三十五歳元ニート、異世界の子供達に完全に見守られ、介護されながら、汗と謎の呼吸音を撒き散らして、目的の薪売り場へとただ泥臭く進んでいくのだった。




