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三十五歳、大きな変化の兆しには気づかない」




 この世界に、パンツ一枚で放り出されて、もう一ヶ月くらいは経ったのだろうか。


 カレンダーなんて便利なものはないから正確な日付は分からないが、肌を撫でる風の匂いや、毎日の過酷な労働の積み重ねが、確かにそれだけの時間の経過を物語っていた。


 自分ではまだ、劇的な「チート覚醒」なんて実感は1ミリも掴めていない。だが──俺の身体は、少しずつ、本当に少しずつだが、今の地獄のような生活に適応し始めているような気がする。


 「……あれ? 水汲みの瓶を持つ腕が、プルプルしなくなってる」


 もちろん、いまだに毎朝起きるたびに全身が筋肉痛で悲鳴をあげてはいる。


 だけど、以前なら途中で何度も地面に置いて休まなければ運べなかった重い水瓶を、今は一度も落とさずに井戸から台所まで運べるようになっていた。


 それに、薪割り場に立って手斧を握り直した時も、ふと思った。


 「……心なしか、斧が少し軽くなったか?」


 最初の頃は鉄の塊にしか思えなかった斧が、今は自分の腕の延長のようにしっくりと馴染んでいる。


 一つ一つは、小さな、本当に小さな出来事だ。元の世界の基準なら「ちょっと体力がついた」程度のことかもしれない。だけど、十年間部屋に引きこもって衰えきっていた俺にとっては、これ以上ない確かな「実績ステータス」が積み重なっているような気がして、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 (フフン、これ、もしかして俺……今なら結構仕上がってるんじゃねぇか!?)


 調子に乗った俺は、顔を洗っていた井戸の側で、濡れた顔をバッと拭い去ると──、


 「……フンヌッ!!!」


 思いきり腹筋に力を込め、ボディービルダーさながらのポージングを取ってみせた。


 見よ! この一ヶ月間、血と汗と泥にまみれて鍛え上げられた、おとこのニューボディを!


 「……何してんのおっさん? そんなところで腹出してると、冷えて下痢するぞ」


 奇妙な掛け声と共に震えている俺を、通りがかったガキが、本気で心配そうな──いや、ぶっちゃけ少し引いたような目で見ていた。


 「ちっげぇよ! 腹壊したわけじゃねぇよ! 見ろよこの身体、筋肉がついて引き締まってきただろうが!」


 フンッ! とさらに胸を張ってアピールする俺。


 だが、子供はまじまじと俺の腹まわりを見つめた後、


 「……?」


 ──どこに筋肉があんの? 相変わらず贅肉しかないじゃん。


 という、あまりにも残酷で無慈悲な心の声をこれでもかと目に浮かべて俺を見つめてきた。三十五歳のおっさんのポッコリお腹(ニートの遺産)は、一ヶ月の労働くらいではビクともしていなかったらしい。


 「くっそおおおおお! いまに見てろよコンチクショウッ!!」


 俺は心の中で流れてもいない涙を拭いながら、恥ずかしさに耐えかねて、その場から全力のダッシュで走り去るのだった。


 「チクショウチクショウチクショウチクショウッッ!!!」


 あのガキめ、見てろよ! どこが贅肉だ! これは来るべきチート覚醒の日のために、あえて蓄えているエネルギーの貯蔵庫ストレージだ!


 俺は心の中で毒づきながら、怒りのエネルギーをそのまま手斧に乗せて、一心不乱に薪を割りまくる。


 与作のような長閑のどかな歌声なんて今の俺には要らねぇ。


 いまの俺に必要なものはなんだ!? ──知らねぇよ! 俺に分かるか!


 いや、分かってる! 決まってるだろ、エアコンの効いた部屋で一日中ゴロゴロしながらネトゲができる、あの最高に自堕落なニート生活だよ!


 なのに、なんで俺はこんな見知らぬ異世界で、毎日毎日汗だくになって肉体労働なんかしてるんだ!?


 答えは一つ、あのクソ婆さんに暴力(殺気)で脅されてるからだよ! 勝てるかあんな奴に! 地面を叩けば人間大砲みたいな爆音を出すような化け物婆さんに、三十五歳元無職が逆らえるわけねぇだろうが!


 「やりたくねぇ……! こんなこと、本当は一秒たりともやりたくねぇのによぉ……ッ!」


 文句とは裏腹に、一ヶ月の調教ルーティンのせいで、俺の身体は恐ろしいほど無駄のない動きで勝手に斧を振り下ろし、丸太を綺麗に叩き割っていく。


 「くすん……。あたいの純潔な身体、労働の喜びに汚れちまったよ……」


 脳内で哀れな悲劇のヒロインになりきってシクシクと嘘泣きをしながら、完全に現実逃避のバカをやっていた、その時だった。


 「……はぁ、ふぅ。……あれ?」


 ハッと我に返って周囲を見渡すと、いつの間にか地面に転がっていた丸太がすべて消え、薪割り棚のてっぺんまで完璧に薪が積み上がっていた。


 「脳内でバカやって、ストレス発散しながら手を動かしてたら……いつの間にか終わっちゃったな。よし、今度からこの作戦で行こう」


 おまけに、ふと空を見上げて俺は戦慄した。


 まだ、太陽がかなり高い位置にある。いつもなら夕焼けが広がり、日が落ちるギリギリの時間までかかっていた作業が、なんとまだ数時間は日が落ちるまでに余裕がある段階で完了してしまったのだ。


 「新記録達成……! やったね一郎、明日はホームランだ……!」


 己の成長を実感し、ちょっと誇らしい気持ちでパチパチとセルフ拍手を送っていた、まさにその直後だった。


 フワァ……と。


 俺の、汗まみれの腕の表面が、一瞬だけ淡い光を放って煌めいたような気がした。


 「……ん? なんだ? 今、なんか身体が光ったような……?」


 驚いて自分の両手をじっと見つめてみるが、そこにあるのはいつも通りの薄汚れたおっさんの手だけだ。


 「……ああ、なんだ。ただの目の錯覚か。一気に動きすぎて、汗が乾いて塩にでもなって反射したのかな?」


 本気でそう思い込み、俺は「あー、疲れた」と気楽に首を振って手斧を置いた。


 だが──それが、この世界における「大きな変化」の明確な兆候だということに、この時の俺はまだ、一ミリも気づいていなかった。







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