三十五歳のおっさんの身体に、残るもの
婆さんにど真ん中から特大の正論パンチを食らわされた俺は、全力で不貞腐れていた。
ああ、そうかい。理屈じゃ100%そっちが正しいだろうよ。
どうせ俺は甘ったれのごくつぶしだよ。世の中舐めて、傷つくのが怖くて、ずっと部屋に閉じこもってた臆病者ですよ。
だけどな。
世の中には、どうしようもできないことだってあるんだよ。
なんでもかんでも、自分が正しいなんて思うな。
自分が努力して這い上がれたからって、他の奴も同じようにできるなんて傲慢な勘違いをするんじゃねぇよ。
できない人間はな、どんなに頑張ったって、どんなに泥をすすったって、できないんだ。
無理なんだよ。そもそも、その『頑張る』ってこと自体が、もう今の俺にはできねぇんだよ……。
(……どうすりゃあいいんだよ、クソが。俺にはもう、頑張る理由も、頑張り方すら残ってねぇんだよ……)
心の中で血を吐くような悪態を何度も何度も繰り返し、世界のすべてを呪う。
──なのに。
俺の身体は、婆さんに言いつけられた毎日の水汲みと薪割りを、驚くほど律儀にやり続けていた。
「……くそ、重ぇんだよ……っ!」
パンパンに張った筋肉の痛みに耐えながら、井戸のロープを引く。重い斧を振り下ろす。
サボるための言い訳なら、脳内にそれこそ無限に湧き出てくるはずだった。いつもならとっくに投げ出して、どこかで寝転がっているはずだった。
だけど、やめられなかった。
まるで、今の俺にはもう、この無骨で不器用な作業しか残されていないのだと、肉体が本能で理解しているかのように。ここで手を止めてしまえば、本当に自分の存在すべてが消えてなくなってしまうような恐怖に突き動かされ、俺はただひたすらに薪を割り続けた。
「あー、くそ! ……ようやく、終わったぁあ……っ!」
最後の一本を叩き割り、手斧を地面に置く。
救護院の薪割り棚が、綺麗に切りそろえられた薪で上までみっちりと埋まった。これが、俺の今日の一日の仕事が完了した合図だ。
いつもなら、辺りが完全に暗くなり、夜の帳が下りるまでかかって、ようやく終わる泥沼の作業。
だけど、今日は違った。少しだけ、いつもより早い。まだ空の向こうに夕焼けの赤みが残り、完全に日が落ちきる前に終わらせることが出来たのだ。不貞腐れながらも、休まずに斧を振り下ろし続けた成果かもしれない。
息をきらしながら井戸へと向かい、冷たい水で首筋の汗を流していると──、
「お、おっさん! 今日は終わるの早いじゃん!」
救護院の子供の一人がバタバタと駆け寄ってきて、そんな風に気安く声をかけてきた。
「ま、たまにはな。おっさんだって、いつもいつもノロマなわけじゃねぇんだよ」
ふいっと顔を背けながら、強がりの生返事を返す。今日はたまたま調子が良かっただけだ。それか、薪の木質が柔らかかったのか。
すると、子供は俺の横に並び、まじまじと俺の身体を見上げてきた。
「うーん、たまたまかなぁ? 少しは身体が絞れてきたみたいだしさ、単に慣れてきたんじゃねぇの?」
「はぁ?」
子供はそう言うと、俺のわき腹のあたりをペシペシと軽い手足で叩いてきた。
言われて、俺は己の腹の肉を自嘲気味につまんでみる。……いや、どうだ? 相変わらずだらしないニートの贅肉がそこにあるだけで、大して変わりがないように思える。三十五歳のおっさんの身体が、そんな数日やそこらの労働で劇的に変わるわけがない。
そんな俺の様子を見て、子供はニカッと無邪気に笑った。
「ずっとやってれば、絶対変わってくるよ!」
子供特有の、根拠のない、けれどひたすらに気楽で前向きな言葉。
「……そうかもな」
俺は水に濡れた顔を拭いながら、小さく、本当に小さくそう呟いた。
変わる。ずっとやっていれば、変わる。
変わるはずがないと諦めていたはずなのに、子供にそう言われた瞬間、その言葉は俺の胸の奥に、薪割りで出来た手のひらの豆みたいに、じわじわと胸の奥に残り続けていた。




