第9話 声が消えた聖女
「不敬ですわ! 無音の覇者とおだてられて調子に乗っていらっしゃいますのね!?」
俺の冷めきった態度にプライドを傷つけられたのか、エルナが激昂して一歩踏み出した。
「私がどれほどの大詠唱を扱える聖女であるか……その身をもって思い知りなさい ! 聖なる音圧よ、不敬なる者を平伏させよ! 『聖響風爆陣』ぉぉぉぉぉぉ !!!!」
エルナが両手を掲げ、朗々と歌い上げるような大詠唱を開始した。
……流石は王立騎士団の隊長というべきか。
村の自警団や盗賊どもとは、明らかに基礎のレベルが違う。ただうるさいだけではない。
腹底から響く超高音のソプラノボイスが、美しい倍音を含みながら大気そのものを劇的に震わせ、庭の木々が一斉に激しくしなり始めた。
120デシベルを超える、完璧な発声による音圧攻撃。
巻き起こる突風が俺の前髪を激しく揺らし、後ろに控える騎士たちが「おお、聖女様の大詠唱だ!」と歓声をあげる。
だが、俺の心に浮かんだのは、ただひとつの感情だけだった。
「……だから、静かにしてくれって言ったのに」
俺は静かに目を閉じ、脳内に音響解析のスクリーンを展開する。
エルナの発する美しくも巨大な音波。周波数およそ850ヘルツを核とした、複雑で密度の高い倍音の波形。
確かに、惚れ惚れするほど綺麗に揃った波形だ。
だが……
波である以上、どんなに美しかろうが、やるべきことは何も変わらない。
俺は右手の親指と中指を、静かに重ね合わせた。
エルナの放つ巨大な音波に対し、その中心周波数から倍音成分に至るまで、完全に符合する『逆位相』の魔力波を、俺を中心に広域展開する。
パチン。
指を鳴らした、次の瞬間
『…………』
世界から、一切の「音」が吹き飛んだ。
耳をつんざくはずの破裂音も、巻き起こりかけていた暴風の風切り音も、地面を揺らす地鳴りすらも。
まるで映画の再生中にリモコンの『消音』ボタンを押されたかのように、何の前触れもなく、完全なる「無」に帰した。
「ッ……!? ッ……!?」
エルナは喉を極限まで開き、顔を真っ赤にして叫び続けている。
しかし、彼女の口からは息が漏れる「すぅー、すぅー」という微かな擦過音すら聞こえない。
いくら喉を震わせ、大気を揺らそうとしても、口から放たれた音波は俺が展開した「無音エリア」に接触した瞬間に全て相殺され、ゼロになって消滅していく。
己の放った声すら自分の耳に届かないという異様な異常事態に、エルナの表情から余裕が完全に消え去った。
(な……何が起きていますの!?)
自分の喉を手で何度も確かめ、必死で「あ、あー!」と声を張り上げようとするが、世界はしんと冷え切ったように静まり返ったままだ。
後ろで歓声をあげていた騎士たちも、口を金魚のようにパクパクと開けたまま硬直している。
叫んでも、怒鳴っても、お互いの声すら一切聞こえない。
自分たちの耳が破壊されたのか、それとも世界から音が消え去ったのかすら判別できない未知の恐怖。
エルナの瞳に、明らかな「絶望」が滲み出していった。
己の「声」こそが真骨頂であり、絶対の誇りだった少女にとって、声(音)が存在しない空間というのは、底なしの暗闇に突き落とされたような狂気そのものだったのだろう。
やがて大粒の涙を目元に浮かべ、エルナは喉を押さえたまま、へたり込むように地面へ膝をついた。
「あ……あ……っ」
俺がノイズキャンセリングの出力をわずかに絞ると、彼女の喉から絞り出すような掠れ声が漏れ出た。
「こ、声が……出ない……私の聖なる声が……奪われた……!?」
「声が出なくなったんじゃない。君の声の音波と、まったく逆の波をぶつけて『ゼロ』にしただけだ」
俺は冷ややかに彼女を見下ろした。
「どんなに素晴らしい声量も、美しい歌声も、物理現象としてはただの空気の振動だ。波が存在する限り、俺はそれを『無』にできる。分かったら、もう静かにしてくれるか?」
「あ……あぁ……」
へたり込んだままのエルナは、青ざめた顔で己の首元をさすり、恐怖に震える瞳で俺を見上げていた。
己の絶対的な誇りを、何の手応えもなく一瞬で消し去られたショック。
背後の騎士たちも完全に戦意を喪失し、剣を構えるどころか腰が引けて後ずさりしている。
(よし……これで自分の声のうるささに気づいて、大人しく帰ってくれるだろう)
俺がようやく平穏が戻ると安堵の息を吐いた、その時だった。




