第8話 聖女エルナの来訪
「どこですのー!? 無音の術者とお呼びされる鳴海晃人様は、どちらにおいでですのーーー!!?」
……ズガンッ!!
晴れ渡る午後のシグマ村に、大地を揺るがすほどの美声(物理)が落ちた。
あまりの音圧に村の鶏たちが一斉にコケコッコーと鳴き叫んで飛び立ち、民家の屋根瓦がカラカラと音を立ててズレ落ちる。120デシベルは下らない、完璧な発声法による超大音量のソプラノボイスだ。
村の端にある完全防音オーディオルームで、静かに文庫本をめくっていた俺は、ピクッと眉をひそめた。
「……なんだ?」
防音壁を二重にし、隙間をコーキングし、吸音スライムゲルを敷き詰めた俺の愛しき『絶対聖域』。
そこを突き破って外から「音」が侵入してくるなど、あってはならないことだ。
遮音壁を貫通して届くほどの爆音……?
俺は冷めたコーヒーカップを机に置くと、不快感を露わにしながら重厚な二重ドアを開けた。
外へ出た瞬間、そこには信じられない光景が目に飛び込んできた。
整列した豪華な白銀の甲冑騎士たち。その先頭に立ち、銀髪を優雅にたなびかせているのは、絢爛な聖職者の法衣を纏った一人の美しい少女だった。
だが、その可憐な見た目とは裏腹に、彼女の胸板は恐ろしいほど深く上下し、喉の奥からは大気を歪めるレベルの『声のエネルギー』が解き放たれている。
「私は王立声楽騎士団が第一隊長、エルナ・ヴォイス・ルシルと申しますわ!! 噂を聞きつけ、王都より参上いたしましたーーー!!」
びりびりと空気が振動し、俺の家の庭の雑草がなぎ倒される。
俺は思わず両耳を押しつぶすように塞ぎ、顔を歪めた。
「……うるさい。何なんだ急に」
「あ! 貴方が鳴海晃人様ですのね!?」
俺の姿を視界に捉えるやいなや、エルナはパッと表情を輝かせ、ズカズカと大股で歩み寄ってきた。距離が縮まった分、声のダメージが直接的に脳を揺らす。
「お噂はかねがね伺っておりますわ! 声を出さずに130デシベルの魔法を霧散させ、指一本で全物質を粉砕する『無音の覇者』……! その実力、まさに我が騎士団が喉から手が出るほど求めていた人材ですわ!」
「頼むからもう少し声を落としてくれ……耳が痛い」
「私は至って普通にお話ししていますわ!? これぞ我がルシル家に伝わる『相手の心に直接響かせる気品ある発声法』! 腹式呼吸で咽頭腔を限界まで広げ、声帯の振動を骨伝導で増幅させた伝統の響きですのよ! 」
「それが近所迷惑だって言ってるんだよ……!」
腹から声を出すな。喉の力を抜け。お願いだからボソボソ喋ってくれ。
前世の音響エンジニアとしての知識が「完璧な発声法ゆえに無駄に遠くまで通りすぎる声」を正確に分析してしまい、余計にイライラが募る。
だが、エルナはこちらの苦痛など露知らず、自信満々にバッと胸を張った。
「さあアキト様! 我が『王立声楽騎士団』の特別顧問として、今すぐ私と共に王都へお越しくださいまし! 破格の俸給と、王立図書館の永久閲覧権、さらには最高級の歌劇場のお席をご用意いたしますわ!!」
「いらん。全部いらん」
「……はい?」
エルナの朗らかな笑顔が、ピタッと凍りついた。
「王都なんて行かない。歌劇場もいらない。俺はここで、静かにコーヒーを飲みながら本を読みたいだけだ。帰りな」
「な……ななな、なんですって―――っ!?!?」
耳が破裂するかと思うほどの悲鳴が上がった。
エルナは信じられないものを見る目で俺を凝視し、豊満な胸を激しく上下させる。
「王立騎士団からのスカウトを即答で蹴るなんて、あり得ませんわ! 貴方、自分がどれほど誉れ高き打診を断っているか分かっていらっしゃいますの!?」
「誉れとかどうでもいいんだよ。とにかく君の声がうるさい。これ以上大声を出すなら、追い払うぞ」
俺が冷ややかに言い放つと、エルナの後ろに控えていた騎士たちが一斉にざわつき、腰の剣に手をかけた。
「な……不敬だぞ、貴様! 聖女エルナ様に向かって何たる口を!」
「いくら噂の術者とはいえ、我が騎士団の威光を愚弄するか!」
騎士たちが口々に怒号を上げる。
ただでさえエルナ一人の声で限界なのに、甲冑を着た集団が一斉に大声を張り上げ始めたのだ。
シグマ村の静かな午後は、一瞬にして最悪の騒音地獄へと変貌した。
俺は深い、深い溜息をついた。
「……はぁ。本当に、どいつもこいつも……」
俺の手に、静かに魔力が集まり始める。
この世界の音の暴力から己の平穏を守るためだけに磨き上げてきた、俺の『音響物理学』の術式が。
「静かにしろって……言っただろ」
俺は不快感を隠しもせず、静かに人差し指をすっと一本、口元へ立てた。




