第17話 【サブ】防音室で飲むコーヒーは最高だ
決戦を明日に控えた演習場の隅。
俺は木陰に設置した小さな折りたたみテーブルの上に、愛用のドリッパーとネルフィルターをセットしていた。
直火で炙ったケトルの湯が沸き、シュンシュンと小さな汽笛を上げる。
カリカリと手挽きミルを回すと、芳醇な珈琲豆の香ばしい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「あの……アキト様。それは何をなさっているのですか?」
汗を拭いながら特訓を終えたエルナが、不思議そうに覗き込んできた。
「見ての通り、コーヒーを淹れてるんだよ。激しい特訓の後は、静かな空間で温かいカフェインを摂るに限る」
俺はテーブルを囲むように、半径3メートルの即席の『完全防音結界』を展開した。
シュン。
ふっと空気が切り替わる。
遠くで騎士たちが張り上げている「うおぉぉぉ!」という野太い掛け声も、 風が木々を揺らす音も消え去った。
結界の中を満たすのは、お湯がコップに注がれる優しく繊細な水音と、深煎り豆の濃厚な香りのみ。
「わぁ……! すごいですわ……! 外の喧騒が一切遮断されて、まるで世界に私たち二人しかいないみたい……」
エルナが感動したように目を輝かせ、俺の向かいの丸椅子にちょこんと腰掛けた。
「はい、君の分」
「あ、ありがとうございます……!」
木製のカップに注いだ漆黒の液体を渡すと、エルナは両手で大切そうに包み込み、鼻を近づけてクンクンと香りを嗅いだ。
「すごく良い香り……でも、少し苦そうですわね?」
「慣れないと苦いかもな。嫌なら砂糖を入れろよ」
「いいえ、アキト様と同じものをいただきますわ!」
エルナは意地を張るように胸を張ると、意を決して口をつけた。
「ん……っ……! ふふ、やっぱり少し苦いですけれど……なんだか、不思議と落ち着く味ですわ」
ふぅ、と息をついて口元を緩める彼女を、俺はぼんやりと眺めた。
前世では、激務と騒音に追われ、コーヒーの味すら分からないまま胃に流し込む日々だった。
だが今、こうして自分が作り出した「完全な無音空間」の中で、丁寧に淹れた一杯を味わう。
これこそが、あの頃渇望してやまなかった至高の瞬間だった。
「……やっぱり、静かなところで飲むのが一番だな」
「え?」
「いや、コーヒーのこと」
俺が呟くと、エルナはカップを抱えたまま、じっと俺の横顔を見つめてきた。
「アキト様は……本当に『静寂』愛していらっしゃるのですね」
エルナはカップの縁に視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「ああ。うるさいのが大嫌いだからな。……まあ、君が最初に大声で怒鳴り込んできた時は、本気で追い払おうと思ったけど」
「うぅ……その節は本当に申し訳ありませんでしたわ……」
エルナは耳まで赤くして縮こまったが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべ、カップの中の黒い液体を見つめた。
「でも、私……あの日アキト様に出会えて本当によかったと思っています」
「どうしてだ?」
「私、ずっと勘違いしていましたの。大声を張り上げて、誰よりも遠くまで声を届けることこそが『聖女』の務めであり、唯一の正しさなのだと。喉を痛めても、苦しくても、それが誇りなのだと自分に言い聞かせて……」
エルナのカップを握る指先に、わずかに力がこもる。
「けれど、アキト様は違いましたわ。『静かさ』の中にこそ本当の優しさと理があって……声を張り上げなくても、大切なものを守れるのだと教えてくださった。不快な騒音から私や騎士たちを守り、導いてくださった……」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
防音結界の静寂の中で、彼女の透き通るような銀色の瞳が、夕陽を受けて琥珀色に揺れていた。
「私にとって……アキト様とこうして過ごす静かな時間が、世界で一番……愛おしくて、心安らぐ時間になりましたの」
「……エルナ?」
「あ……っ! い、いまのは、その……っ! 『音響物理学』のお話がとても勉強になって心地よいという意味でしてっ!!」
自分の言葉の意味に遅れて気づいたのか、エルナは顔をリンゴ以上に真っ赤にして、両手で顔を覆ってバタバタと暴れた。
だが、焦って手元のカップを倒しそうになったため、俺はとっさに身を乗り出して彼女の手首を掴んだ。
「わ……っ!?」
顔が、至近距離で交錯する。
外の雑音が一切届かない狭い空間のなかで、互いの浅い吐息だけでなく、早鐘のように高鳴る彼女の脈拍までが肌越しに生々しく伝わってきた。
「……こぼすなよ。せっかく淹れたんだから」
「あ……は、はいっ……ごめんなさい……っ」
俺が手を離すと、エルナは真っ赤な顔を隠し、小さく丸まってしまった。
(……参ったな)
俺は冷めかけたコーヒーを一口煽り、気まずさを紛らわせるように視線を静かな空へと逃がした。
静寂を愛する男と、その静寂に救われて恋を知った聖女。
無音の結界の中に漂う甘く照れくさい空気は、どんな大騒音よりも、俺の心臓をうるさく跳ねさせるのだった。




