先生、その距離は近すぎます!②
棚の向こうで、足音が止まった。
箱を抱えた人は、まだ入口の近くにいるらしい。
「奥の棚の前に置きますか?」
……こっちへ来るの?
私は思わず身を縮めた。
すぐ横の棚に制服の袖が擦れ、小さな音がする。
「……奥に、どなたかいらっしゃいますか?」
声がこちらへ向けられ、息を止めた。
私の前に立つアシェル様が、顔だけを入口へ向ける。
「私です。こちらで資料を確認しています。箱は入口のそばに置いていただけますか」
落ち着いた声だった。
私の姿は、棚と先生の体に隠れている。
「失礼いたしました。では、こちらへ」
箱を床へ下ろす音がした。
……よかった。
こちらまでは、来ないみたい。
ほっとした拍子に、指先が目の前の上着へ触れた。
慌てて引こうとすると、支えられていた腕にそっと力がこもる。
動かなくていいと、言われた気がした。
顔を上げる。
近すぎて、先生の表情をうまく見られない。
視線を少し下げると、今度は襟元と、呼吸に合わせて動く胸元が目に入った。
……どこを見ればいいの。
「アシェル様」
声を出さず、唇だけで呼ぶ。
先生が気づいて、もう少し顔を寄せた。
違います。
近づいてほしかったわけではなくて!
ますます言葉が出なくなる。
見上げたまま固まっていると、先生の視線が私の顔で止まった。
すぐそばで、息を吸う音がした。
腕を支えていた指が、わずかに動く。
それから先生は、私を見つめたまま、ゆっくり顔を離した。
「では、こちらで失礼いたします」
箱を運んできた人の声に、私ははっとした。
足音が遠ざかり、廊下側の扉が閉まる。
アシェル様は、その足音が聞こえなくなるまで待っていた。
やがて棚へ添えていた手を下ろし、私へ顔を戻す。
「……もう、大丈夫です」
目が合った。
腕を支える手も離れたのに、先生は一瞬、そのまま動かなかった。
私も、何と言えばいいかわからず、見上げてしまう。
「あの」
「……はい」
「もう少し離れていただけると、落ち着けると思います」
言えた。
言えたけど!
先生に何をお願いしているの、私!
アシェル様が、自分の立っている位置を確かめるように目を落とす。
それから、通路へ一歩下がった。
「……失礼しました」
私は棚と壁の間から、そっと出た。
「嫌だったわけではないんです。ただ、その……近かったので」
言い訳のように続けると、先生はしばらく黙っていた。
それから、少し困ったように笑う。
「ええ。私も、少々慌てていたようです」
顔を上げた。
「アシェル様も?」
「ええ」
短い返事だった。
先生でも、慌てるんだ。
そう思って見ると、彼は私から視線を外し、棚にしまった記録を取り出した。
紙を揃える手が、いつもよりゆっくり動いている。
「こちらで、もう少しお待ちください。書類の確認を終えてきます」
「……はい」
頷くと、アシェル様は授業の部屋へ戻った。
私は通路に立ったまま、頬へ手を当てる。
秘密を守るために、隠れていただけ。
そのはずなのに。
耳元で名前を呼ばれた声が、なかなか消えてくれなかった。
* * *
来訪者を見送る声がして、しばらくしてから、アシェル様が迎えに来た。
「お待たせしました。戻って大丈夫ですよ」
授業の部屋へ戻ると、先生が廊下側の扉を閉めた。
私はようやく、肩の力を抜く。
「……びっくりしました」
「部屋の使用について、連絡が行き届いていなかったようです。次回までに、学園長と確認しておきます」
アシェル様は机へ記録を戻し、私へ向き直った。
「今日は、ここまでにしましょう」
「まだ、少し時間がありますけど」
「今、魔力の量を一定に保てそうですか?」
私は口を閉じた。
……無理です。
今は、ちょっと自信がありません。
正直に首を振ると、先生が小さく笑った。
「では、先ほどの練習の記録だけつけて、終わりにしましょう」
* * *
椅子へ戻り、ノートを開く。
練習した時間。
魔力の量が一定でなくなったこと。
自分で調整できたときの感覚。
書くべきことは、わかっている。
けれど、ペンを動かそうとすると、さっきの声が蘇った。
――ティア。少しだけ、静かに。
……今、それを思い出さなくてもいいでしょう!
「書きにくいところでも?」
向かいから尋ねられ、私は顔を上げた。
アシェル様は、いつものように記録を待っている。
その顔を見ると、棚の陰での近さまで思い出してしまった。
「練習のあとの体調も書くんですよね」
「ええ」
「……今、心臓が速いのは、魔力のせいではないと思うんですけど」
先生が黙った。
……これも、書くべきでしょうか。
尋ねきれずにいると、向かいで小さく息を吐く気配がした。
「そこは、来訪者があったため授業を中断、と書いておいてください」
「……はい」
少し間が空く。
それから、先生の声がした。
「落ち着いて練習できるようにするのは、私の役目ですから」
顔を上げると、アシェル様がこちらを見ていた。
その口元には、少しだけ苦い笑みがある。
「次は、きちんと授業に集中できるようにします」
……先生。
それは、私のことですか。
それとも。
聞けないまま、私はノートへ目を戻した。
いつもの秘密の授業。
そのはずだったのに。
今日は、記録に書けないことばかり増えてしまった。




