先生、その距離は近すぎます!①
秘密の授業へ向かう前に、図書館へ寄った。
昨日の約束どおり、ルシア様は窓際の席にいた。
「ルシア様、こんにちは」
「来たね」
本から顔を上げた彼が、向かいの席へ目を向ける。
私は腰を下ろしてから、少し迷って口を開いた。
「あの。昨日、私が来るのを待っていたって、おっしゃったでしょう?」
「ああ」
「嬉しかったんです。それで……私も、ここでお会いするのを楽しみにしていたので」
言い終えて、そっと顔を上げる。
「それを、ちゃんとお伝えしたくて」
ルシア様は一瞬黙った。
それから、いつもより柔らかく笑う。
「……そうか」
その顔を見たら、言ってよかったと思えた。
古い地名の話も、少しだけ聞けた。
同じ森なのに、時代によって呼び名が変わる理由。
もっと聞きたかったけれど、今日は授業がある。
「続きは、また今度」
「はい。忘れないでくださいね」
「君の方が、覚えていそうだな」
……確かに。
気になったことは、なかなか忘れられないんです。
私はノートを抱え直し、指定された部屋へ向かった。
* * *
扉を叩くと、中から落ち着いた声がした。
「どうぞ」
部屋へ入った私は、机の前に立つ姿を見つけて、頬を緩めた。
「アシェル様。お久しぶりです」
「ええ。先日は、急に授業を取りやめてしまって、すみませんでした」
「いえ。王宮の急用だったんですよね。今日は、もう大丈夫なんですか?」
「ええ。今日は君の授業の時間を、きちんと取ってありますよ」
そう言って、椅子を示される。
私は廊下へ続く扉を閉め、机へノートを置いた。
部屋の奥には、隣の準備室へ通じる扉もある。そちらは、今は開けてあった。
ここで治癒魔法を教わっていることは、秘密だ。
普通の授業のように、友達へ「今日は何を習った」と話すこともできない。
けれど、四年間教わってきた時間は、私にとって大切なものだった。
「では、記録を見せてください」
「はい!」
延期になった間の練習について説明すると、アシェル様は質問を挟みながら、ページを確かめていった。
「練習中、流す魔力が増えすぎたあとも、自分で元の量に戻せたのですね」
「はい。前より、慌てずに調整できました」
「それは、よかった」
目元が少し和らぐ。
嬉しくなっていると、次の行を指で示された。
「ただ、終わったあとの記録がありません」
「……疲れなかったので」
「でしたら、そう書いてください。何もなかったことも、大事な情報ですよ」
……はい。
そこは、見逃してはいただけませんでした。
* * *
今日は、指先へ流す魔力の量を一定に保つ練習から始まった。
小さな傷なら、もう自分の意思で治せる。
でも、傷を治せても、必要以上に魔力を使ってしまうことがある。
少ない負担で、安定して治せるように。
そのために、魔力を細かく調整する練習も続けていた。
机の上へ手を出し、指先へ意識を向ける。
少し流れが弱くなった気がして、魔力を増やそうとしたところで、声がした。
「魔力を増やさず、今の量を保ってください」
私は詰めかけた息をゆっくり吐き、指先へ流す魔力の量を一定に保った。
「ええ。そのまま」
しばらくして、アシェル様が頷く。
「では、魔力を流すのを止めてください」
指先への魔力を止め、手を下ろした。
「どうでしたか?」
「前より楽でした。途中で流す魔力の量がばらつきましたけど、自分で一定に戻せたと思います」
「私も、そう見えました」
顔を上げると、静かな笑みが返ってきた。
「上手になりましたね」
胸が、ふわっと温かくなる。
「では、もう一度――」
「その前に、今の感覚を記録してください」
「……はい」
言うと思った、という顔をされた。
もう。
私も、ちゃんと覚えているんですけど!
ペンを取ろうとした、そのときだった。
廊下側の扉を叩く音がした。
「アシェル様。こちらにいらっしゃいますか?」
私は反射的に顔を上げ、返事をしかけた。
けれど、アシェル様が私を見て、ご自分の唇の前に人差し指を立てる。
――声を出さないように、という合図だ。
私は口を閉じ、小さく頷いた。
「ええ。何でしょう」
先生の声は、いつもどおりだった。
「学園長からお預かりした書類がございます。ご確認をお願いしたいのですが」
廊下から聞こえたのは、学園の先生の声だった。
……書類の確認。
ということは、部屋へ入っていらっしゃる?
私がいるところを見られたら、何をしていたのか聞かれるかもしれない。
アシェル様が、私のノートを閉じた。
「少々、お待ちください」
扉の向こうへそう答えてから、小さく手招きをする。
私は立ち上がり、先生のあとに続いた。
* * *
アシェル様はノートと練習の記録をまとめ、隣の準備室へ運んだ。
私も中へ入り、授業の部屋との間の扉をそっと閉める。
背の高い棚が何列か並ぶ、小さな部屋だった。
反対側の壁には、廊下へ出られる別の扉がある。
アシェル様が、その扉を示した。
「こちらから出れば、来訪者とは顔を合わせずに済みます」
けれど、取っ手へ手を伸ばしかけたところで、向こうから数人の話し声が近づいてきた。
生徒たちだろうか。笑い声と足音が、すぐ外を通っていく。
先生は手を止め、私を振り返った。
「……今は、人がいるようですね。通り過ぎるまで、ここで待っていてください」
私は頷いた。
アシェル様は記録を棚へしまうと、授業の部屋へ戻っていった。
間の扉が閉まり、ほどなくして、来訪者を迎える声が聞こえる。
私は棚のそばで、そっと息を吐いた。
大丈夫。
廊下が静かになったら、先生に知らせてから帰ればいい。
そう思ったところで、別の声が近づいてきた。
「先生。頼まれていた箱を運んでまいりました」
廊下へ出るための扉が、軽く叩かれる。
……え。
こっちにも、誰か来た!?
「隣の準備室へお願いします」
授業の部屋から、来訪者の先生が答えた。
私は扉を見つめた。
その取っ手が、ゆっくり下がる。
待って。
私、この部屋にいます!
慌てて、並んだ棚の奥へ下がった。
同時に、授業の部屋からアシェル様が戻ってくる。
荷物を運ぶ声を聞いて、様子を確かめに来たらしい。
廊下側の扉が開き、箱を抱えた人の腕が見えた。
アシェル様の視線が、開きかけた扉から私へ移る。
私はもう一歩下がろうとして、踵を棚の脚にぶつけた。
よろめきかけた腕を、先生の手が支える。
「こっちへ」
小さな声とともに、棚の端と壁の間にある、細い隙間へ導かれた。
背中が壁へ近づいたところで、先生が私の前に立つ。
廊下側の入口からは、棚の側板とアシェル様の背中に隠れて、私の姿は見えない。
……でも。
目の前に、先生の胸元があった。
近い。
顔を上げると、アシェル様が私を見下ろす。
片手は私の腕を支え、もう片方は肩の横の棚へ添えられていた。
先生が少し身を屈める。
「ティア。少しだけ、静かに」
耳元へ落とされた声に、息が止まった。
静かに。
はい、静かにします。
でも、この距離で言われると。
心臓の音まで聞こえそうなんですけど!?




