待っていたのは、私だけじゃない
図書館の窓際に、銀灰色の髪を見つけた。
胸の奥が、ふっと緩む。
……よかった。
今日も、いらっしゃった。
放課後、迎えの馬車までは少し時間がある。
私は鞄を抱え直し、閲覧席へ向かった。
「ルシア様」
声を抑えて呼ぶと、彼が顔を上げた。
目が合うと、その口元が柔らかくなる。
「今日は、嬉しそうだな」
「お話ししたいことがあって」
向かいへ座り、私は少し姿勢を正した。
「ノアと、話せました」
ルシア様が、本から手を離す。
「怖がっていた理由を伝えたら、一緒に考えようって言ってくれたんです。全部は説明できなかったけど、ちゃんと聞いてくれて」
彼は私を見て、ゆっくり頷いた。
「そうか。話せてよかったな」
「はい」
迷わず答えられた。
「この前、聞いていただいたおかげです。ありがとうございました」
「話すと決めたのは、君だろう」
そう言ってもらえると、少し照れくさい。
私は本を鞄から出し、机へ置いた。
その表紙を見ながら、小さく続ける。
「それから……好きだって、言ってもらって」
顔が熱くなった。
昨日もルゥに話した。
今日もリリアとローゼに話した。
何回言えば、普通に報告できるようになるんでしょう。
「まだ、同じ気持ちかはわからないって伝えたんです。でも、聞けて嬉しかったので、それも」
ルシア様は、少しの間、黙って聞いていた。
「君が伝えたかったことは、話せた?」
「……はい」
顔を上げる。
「なら、よかった」
穏やかな声だった。
すぐに答えを決めなくていい。
ここでも、そう思える。
ほっと息を吐くと、ルシア様が私の本へ目を向けた。
「今日は、その本の続き?」
「あっ、そうでした。見ていただきたいところがあるんです」
私はさっそく栞を外した。
* * *
開いたのは、細い茎に白い花がついた挿絵のページだった。
「この植物、庭園で見た気がするんです。でも、葉のつき方が少し違っていて」
ノートに描いた絵を並べる。
昨日、授業の帰りに見つけて、書き留めたものだ。
ルシア様が、少し身を乗り出す。
「実物は、まだある?」
「あると思います。図書館からも近くて」
窓の外へ目を向ける。
花壇の向こう、植え込みの脇にあったはずだ。
ルシア様もそちらを見て、本へ栞を挟んだ。
「見に行こうか」
「いいんですか?」
「ここで絵を眺めているより、わかりやすいだろう」
嬉しくなって、私は頷いた。
「では、案内します!」
少し声が大きくなり、自分で口元を押さえる。
向かいで、ルシア様が笑っていた。
* * *
庭園へ出ると、柔らかな風が頬に触れた。
植え込みの角を曲がったところで、私は足を緩める。
「ありました!」
低い縁石のそばに、白い花が揺れていた。
しゃがみ込んで葉を覗くと、ルシア様も隣へ膝を折る。
「本では、葉が二枚ずつ向かい合っていましたよね。これは、ずれているように見えて」
「下の方も見てみて」
言われて、茎を目で辿った。
「あっ」
低いところでは、二枚の葉がほとんど同じ高さについている。
「上と下で違うんですね」
「育ち方によって、間が空くことがある。絵だけだと、わかりにくいな」
私は鞄からノートを取り出した。
立ち上がって書き足そうとすると、開いたページが風にめくられる。
「あ、待って――」
横から手が伸び、端を押さえてくれた。
「持っていようか」
「ありがとうございます。少しだけ」
ルシア様が、私の描きやすい高さで支えてくれる。
私は葉の位置を書き足した。
……難しい。
本ではあんなに綺麗なのに、私が描くと、別の植物みたいになってしまう。
首を傾げていると、頭の上から小さな笑い声がした。
「そんなに、見比べなくても」
「大事なところです。あとで違う植物だと思ったら、困るでしょう?」
真面目に答えると、彼は笑ったまま頷いた。
「確かに」
「今、少し笑いましたよね」
「一生懸命だなと思って」
返事に困って、私は絵へ目を戻した。
綺麗に描けなくても、自分でわかればいい。
特徴は、言葉でも書いておこう。
ペンを動かしていると、頬に髪がかかった。
空いている手で戻そうとして、指に何か触れる。
「……あれ?」
「綿毛がついてる」
ルシア様が、私の髪へ目を留めた。
「取っても?」
「あ、お願いします」
頷くと、彼の指が近づいた。
髪の表面を、そっとすくわれる。
その間、私はじっとしていた。
「取れたよ」
見せられた白い綿毛が、風に乗って飛んでいく。
「ありがとうございます。気づかないまま帰るところでした」
「またついていたら、教えるよ」
「できれば、すぐにお願いします」
答えると、彼が楽しそうに笑った。
私も笑って、最後に小さな蕾を描き足した。
* * *
ノートを受け取り、時計を確かめる。
そろそろ、馬車の待つ場所へ向かった方がよさそうだった。
「もう戻らないと」
「そうか」
ルシア様が、閉じた本を持ち直す。
その表紙を見て、私は少し申し訳なくなった。
図書館で、ご自分の調べ物をしていたのに。
私が来てから、ずっと付き合ってもらっている。
「……すみません。今日も、私のお話ばかりで」
「謝ること?」
「だって、調べ物の途中だったでしょう? ここまで付き合っていただいて」
彼は不思議そうに私を見た。
「君と過ごすのも、俺の時間だろう?」
返事が、出てこなかった。
……あ。
そう言われるとは、思っていなかった。
ルシア様は、私の顔を見て少し首を傾げる。
「付き合わされていると思ってた?」
「いえ。そういうわけでは……でも、いつも私から話しかけているので」
会えたら嬉しくて。
本でわからないところがあれば聞きたくて。
気づけば、私ばかり楽しみにしていた。
「お邪魔していないかなって、少し」
そう言うと、彼は私を見つめたまま、口元を緩めた。
「君が来るのを、待ってたんだけどな」
息が止まった。
白い花が、足元で揺れている。
遠くから、生徒たちの声が聞こえた。
それなのに、今の言葉だけが、やけにはっきり残った。
「……私を?」
尋ねると、ルシア様が頷く。
「今日は来るかなと思って」
困るくらい、当たり前のような声だった。
……待って。
会えたらいいなって。
今日もいらっしゃるかなって。
そう思っていたのは、私だけじゃなかったんだ。
鞄の持ち手へ、そっと指をかけ直す。
「では……今日、私が来なかったら?」
「続きを読むつもりだったよ」
「そう、ですよね」
何を聞いているんだろう、私。
ほっとしたような、少し残念なような気持ちで頷く。
すると、ルシア様が続けた。
「君に聞かせたら、どんな顔をするか考えながら」
思わず、顔を上げた。
彼は、私を見ていた。
「この前、古い地名の話を面白がっていただろう。続きがあったから、次に来たら話そうと思ってた」
本を持つ手へ、視線が落ちる。
ただ、質問に答えてくれていたわけではない。
私に聞かせたい話を、彼も覚えていてくれた。
嬉しさが、ゆっくり胸に広がった。
「……聞きたいです」
ようやく答えると、彼が笑う。
「迎えは?」
「……あっ」
そうでした。
時計を見て、慌てて顔を戻す。
「今日は、もう無理です」
「じゃあ、次に」
「はい」
頷いてから、私は少し迷った。
会えたら、聞こう。
今までは、それでよかった。
けれど。
「明日の放課後は、いらっしゃいますか?お迎えまでの少しの時間ですけど」
ルシア様の目が、わずかに見開かれた。
「いるよ」
「では、私も来ます」
今度は、ちゃんと約束したかった。
「そのお話、聞かせてください」
彼はしばらく私を見て、それからゆっくり頷いた。
「待ってる」
また、胸が跳ねた。
……もう。
明日、ここへ来るだけなのに。
どうして、こんなに楽しみになってしまうんだろう。
* * *
屋敷へ帰り、着替えを済ませると、ルゥが寝台へ跳び乗った。
「ただいま、ルゥ」
隣へ座り、頭を撫でる。
ノートを見せようと思っていた。
白い花の絵も、書き足した葉のことも、話したかった。
でも、先に口から出たのは、別のことだった。
「今日ね、ルシア様が、私を待っていてくださったんだって」
ルゥが顔を上げる。
「私ばかり、お会いできるのを楽しみにしていたと思ってたの」
撫でていた手へ、柔らかな額が寄せられた。
私は少し笑って、背中まで手を滑らせる。
「……嬉しかったんだ」
小さく言うと、ルゥは目を細めた。
会えて嬉しいと、ちゃんと伝えただろうか。
明日、お会いしたら。
待っていてくださって嬉しかったと。
私も、また会いたかったと。
今度は私から、言ってみようかな。




