お泊まり初日と、少し変わった距離
そして翌週。
ノアは二週間の滞在のため、アストレイア侯爵家へやってきた。
「ノア兄様!」
玄関ホールに、リオンの嬉しそうな声が響いた。
「久しぶりだな、リオン」
「はい! お待ちしていました!」
リオンは満面の笑みでノアを迎えている。
その少し後ろで、私は二人の様子を眺めていた。
……本当に来ちゃった。
二週間も同じ屋敷で過ごすなんて、まだ実感が湧かない。でも、ノアの荷物を運ぶ使用人たちを見れば、これが現実だと分かる。
「ティア」
ノアがこちらを見た。
「……よろしくね、ノア」
「ああ。二週間、世話になる」
ノアはいつも通りの顔で笑った。
私はなんとか笑い返したけれど、心の中では大騒ぎだった。
攻略対象が、とうとう我が家に住むことになっちゃったよーー!
* * *
その日の夜。
「ノア様、それではおやすみなさいませ」
案内をしてくれた使用人が、部屋の隅に置かれたベルを示した。
「何かございましたら、そちらのベルでお呼びくださいませ」
「ああ」
「それでは、失礼いたします」
静かに扉が閉まる。
一人になった部屋で、俺は息を吐いた。
まさか、アストレイア侯爵家に二週間も泊まることになるとは思わなかった。
それにしても、ティアはやっぱりアストレイア侯爵夫人の娘なんだな。
笑顔なのに、断れない。あの圧はよく似ている。
思い出すと、少し笑いそうになった。
ティアは必死に嫌がっていたけど、あれも見ていて面白かった。
それに――。
『なにそれ!? 私、聞いてない!』
縁談の話が出たときの、あの慌てよう。
俺との縁談が、そんなに嫌だったのか。
でも、俺そのものを嫌っているようにも見えない。
普通に話していたかと思えば、急に距離を取る。かと思えば、何事もなかったように近づいてくる。
……やっぱり、よく分からない。
まあ、いい。
どうせこれから二週間もここにいる。
一緒に過ごしていれば、少しはティアのことが分かるかもしれない。
そう思いながら、俺はベッドに入った。
* * *
翌朝。
「ふわぁ……」
眠い。まだ眠い。
重たいまぶたを擦りながら食堂へ入ると、もうみんな席についていた。
「おはよう、パパ、ママ、リオン」
「おはよう、ティア」
パパが笑い、ママも「おはよう」と続く。
「姉様、おはようございます」
リオンもにっこり笑った。
「んー……」
まだ半分眠ったまま、自分の席へ向かおうとして――。
「ティア、おはよう」
「……ん?」
聞き慣れた声に、足が止まった。
ゆっくりそちらを見る。
黒い髪。青い瞳。朝からきっちり整った服。
そして、相変わらず整いすぎた顔。
「……ノア」
そうだった。
ノア、いたんだー!
昨日から泊まってるんだった!
というか、朝なのにイケメンー!!
寝起きでその顔を見るの、なんかずるくない!?
……だめだめ。騙されないから!
「おはよう、ノア」
私は何事もなかったように挨拶して、自分の席についた。
「ノアくんがいても、相変わらずね、ティア」
ママが呆れたように笑う。
「朝は弱いんだから、仕方ないでしょ」
「少しくらい取り繕うかと思ったのだけど」
「朝からそんな余裕ないもん」
テーブルの上に並んだ朝食を眺めて、私はリオンのお皿に目を留めた。
「リオン、桃ちょうだい!」
「姉様!」
「一個だけ!」
「姉様のお皿にもあったでしょう?」
「もう食べた」
リオンが小さくため息をつきながら、桃を一切れ私のお皿に置いてくれる。
「ありがと!」
「はぁ……お嬢様」
後ろに控えていたミアまでため息をついた。
「なに?」
「いいえ。何も」
絶対、何か思ってる。
「ノアくんがいたら、ティアも少しは落ち着くかと思ったけど」
ママがくすくす笑う。
「何も変わらないわね」
「変わらないけど?」
何か問題でも?
そう思いながら桃を口に入れる。
甘い。おいしい。
そのとき、向かいに座るノアが少し笑ったのが見えた。
「……なに?」
「いや」
「笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑った!」
「気のせいだ」
むー。絶対笑った。
* * *
「ねえ、リオン。今日の予定は?」
朝食を終えたあと、私はリオンに尋ねた。
「今日は午前中に座学があります。たしか、姉様も一緒に受けるはずですよ」
「あ」
すっかり忘れてた。
「えー! ……まあ、いいか。はーい」
座学は嫌いじゃない。
むしろ今は、この世界のことを知れるから結構楽しい。
前世ではゲームの中でしか知らなかった世界。
でも実際にここで暮らしてみると、知らないことがたくさんある。
歴史も文化も、この国のことも。
知れば知るほど、ゲームで見ていた世界とは違うんだと分かる。
「じゃあ、午後は図書館で本を読まない? 私、気になる本があるんだよね」
「いいですね」
リオンが嬉しそうに頷いた。
「ノアくんはどうする?」
ママに尋ねられ、ノアが姿勢を正す。
「許していただけるのであれば、ティアとリオンと一緒にいたいのですが」
え。ずっと一緒にいるの?
「ええ、かまわないわよ。でも、座学はノアくんのレベルには合わないかもしれないわよ? 大丈夫?」
ママが確認すると、ノアは迷わず頷いた。
「はい。問題ありません」
「ノア、無理して付き合わなくても大丈夫だよ?」
私も一応そう言ってみる。
できれば別行動でも。
いや、なるべく別行動で。
「問題ない」
ノアが笑う。
……問題あるよー! 私には!
「まあ……ノアがいいなら、いいけどー」
結局、午前中も三人一緒になった。
* * *
午前の座学は、いつもの勉強部屋で行われた。
長机に私とノアとリオンが並んで座り、その向かいに先生がいる。
今日の授業は、この国の歴史についてだった。
先生の話を聞きながら、教科書に目を落とす。
前世では知らなかったことばかりで、やっぱり面白い。
しばらく授業が進んだところで、先生がノアに少し難しい問題を出した。
「では、ノア様。こちらはお分かりになりますか?」
「はい」
ノアは少し考えただけで、さらりと答えた。
「正解です。さすがですね」
おお。やっぱりノア、頭いい。
「ノア、さすが!」
私は隣に座るノアのほうへ身を寄せた。
「そこ、私いつも迷うんだよね。こことここが紛らわしくて」
「……ティア」
「なに?」
そのまま顔を上げると、ノアがなぜか少し固まっていた。
「……いや。なんでもない」
「?」
なんだろう。
まあ、いいか。
「では、セレティア様」
「はい!」
今度は私が呼ばれ、慌てて先生のほうへ向き直った。
* * *
――近い。
俺は隣に座るティアを横目で見た。
さっきまで、すぐそばに顔があった。
ふわりと、石鹸のような甘い香りまでした。
なのに、本人は何も気にしていない。
今も先生に当てられた問題を真剣な顔で考えている。
……やっぱり、よく分からない。
俺を避けているのかと思えば、こんなふうに平気で近づいてくる。
「これは――です」
ティアが答えると、先生が頷いた。
「正解です」
「よかった!」
ティアの顔がぱっと明るくなる。
昔は、勉強なんて好きじゃなかったはずなのに。
今は違う。
分からないことがあれば質問して、新しいことを知れば楽しそうに笑う。
学ぶことそのものを楽しんでいるように見えた。
そういうティアを見るのは――嫌いじゃない。
「ねえ、ノア」
またティアがこちらへ顔を寄せてきた。
「これは、こういう意味?」
……また近い。
「そこは少し違う」
俺はティアの教科書を指で示した。
「ここから考えるんじゃなくて、その前から順番に見たほうが分かりやすい」
「あ、ほんとだ!」
ティアの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、ノア!」
「……ああ」
何も気にしていない。
やっぱり、俺だけなのか。
「リオンは大丈夫?」
ティアが俺の向こう側にいるリオンへ声をかける。
「はい。僕も分かりました」
「よかった!」
ティアが笑う。リオンも笑う。
二人の声が聞こえる。
ただそれだけなのに、不思議だった。
こうして三人で同じ机に座っていると、なぜか落ち着く。
――心地いい。
そんなふうに思った。
* * *
午後。
図書館で本を読んだあと、私たちは庭でお茶を飲んでいた。
いつものテーブル。いつもの紅茶。いつものお菓子。
そこに今日は、私とリオンとノアがいる。
「ティア」
「なに?」
紅茶を飲もうとしていた手を止める。
ノアが私を見ていた。
なんだか真剣な顔。
「ティアは、俺のことを避けてる?」
「え?」
ドキッとした。
なになに!? バレてる!?
「ど、どうして?」
「前から、そうなのかなと思っていた」
やばい。バレてる。完全にバレてる。
「そんなわけないよ! やだなー。ねー、リオン?」
私は笑って誤魔化しながら、隣のリオンに助けを求める。
「はい!」
リオンが元気よく頷いた。
よし!
「姉様がノア兄様を嫌うわけないですよ」
「…………」
リオン。
そうじゃない。
いや、間違ってないけど!
「ほらー! ね?」
「ああ」
ノアは頷いた。
けれど、まだ何か言いたそうに私を見ている。
「ただ……普通に話していたと思ったら、急に離れるだろ」
「うっ」
「俺が何かしたのかと思っていた」
「違うよ!」
思わず声が出た。
ノアが少し目を見開く。
「ノアは何もしてない」
それは本当だ。
ノアは何も悪くない。全部、私の事情。
「じゃあ、どうして?」
「それは……」
言えない。
あなたは乙女ゲームの攻略対象で、私と関わると死んでしまうかもしれないから――なんて。
言えるわけがない。
私が黙っていると、ノアが小さく息を吐いた。
「……まあ、いい」
「え?」
「俺が何かしたわけじゃないなら」
そう言ってから、ノアは少しだけ視線を逸らした。
「ただ、避けられるのは……少し寂しい」
「……え?」
思わずノアを見る。
寂しい? ノアが? 私に避けられて?
「……ノア」
胸の奥が、ちくりとした。
私、ノアにそんなふうに思わせてた?
ノアは何も悪くない。
私が勝手に、攻略対象だからって避けていただけ。
でも、それでノアを傷つけていいわけじゃない。
「……ごめんね、ノア」
「え?」
「私、ちょっといろいろ考えることがあって」
全部は言えない。
今だって、ノアに近づかないほうがいいと思ってる。
だって、何が起こるか分からない。
それでも、目の前にいるノアを見ていると――。
「そうだよね……」
「ティア?」
「ノアは、ノアだもんね」
「……?」
ノアが首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「なんでもない!」
「いや、今――」
「なんでもないの!」
ノアは納得していない顔をしている。
だけど、それ以上は聞かなかった。
「姉様?」
今度はリオンまで不思議そうな顔をしている。
「なに?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫!」
私はそう答えて、目の前のお菓子を一つ取った。
「ほら、食べよ! これおいしいよ」
「話を逸らしたな」
ノアが呆れたように言う。
「逸らしてないよ?」
「逸らした」
「気のせい!」
「姉様……」
リオンが呆れたように笑う。
その隣で、ノアも小さく笑った。
その顔を見て、少しだけほっとした。
ノアは攻略対象だ。
私と関わったことで、何が起きるのかも分からない。
だから、気をつけなくちゃいけない。
それは、今も変わらない。
だけど――。
ノアは何も悪くない。
攻略対象だからって、勝手に避けて傷つけるのは違うよね。
私はもう一つお菓子を取って、二人のほうへお皿を押した。
「ほら。二人も食べよ」
「はい」
リオンが嬉しそうに手を伸ばす。
「ああ」
ノアも小さく頷いた。
三人で囲むテーブルを見て、私は小さく笑った。
とりあえず、今はこれでいい。




