今日みたいな日が、毎日続けば
アストレイア侯爵家に滞在するようになって、数日が経った。
あの日から、ティアは俺を避けなくなった。
正確には――避けられているように感じることが、ほとんどなくなった。
それどころか最近は、
「リオン、ノアー! 早くー!」
当たり前のように、リオンと一緒に俺の名前まで呼ぶ。
最初は偶然かと思った。でも、一度じゃない。
庭へ行くときも、お茶を飲むときも、何か面白いものを見つけたときも。
『リオン、ノア! 見て!』
以前なら、ティアが真っ先に呼ぶのはリオンだった。
そこに、いつの間にか俺が加わっている。
別に、大したことじゃない。
俺もここにいるんだから、呼ばれるのはおかしくない。
そう思うのに、なぜかそのたびに少しだけ気分がよかった。
* * *
「ねえ、リオン、ノア」
朝食の途中、ティアが俺たちを交互に見た。
「今日の午後、アップルパイ作らない?」
「アップルパイ?」
「うん! 先週、料理長に教えてもらったの。今度は自分で作ってみようと思って」
ティアが嬉しそうに笑う。
その隣で、リオンがすぐに眉を寄せた。
「姉様。料理は禁止されていたじゃないですか」
「禁止じゃないよ! リオンが一緒なら大丈夫って言われたもん」
「それは、一人では厨房に入らないでくださいという意味です」
「だからリオンがいるじゃない」
ティアは当然のように言ってから、後ろに控えているミアを振り返った。
「そうよね、ミア?」
「はぁ……はい」
ミアが小さくため息をつく。
「ほら!」
「もー……」
リオンが呆れたような声を出した。
「それに今日はノアもいるし。二人もいたら、もう完璧でしょ!」
なぜ俺がいると完璧になるのかは分からない。
けれどティアは、何の疑問も持っていないらしい。
「ねえ、ノア。アップルパイ好き?」
「好きでも嫌いでもないけど……自分で作るのか?」
「もちろん!」
ティアが胸を張った。
「自分で作ることに意味があるのよー!」
「まったく、姉様は……」
リオンがまたため息をつく。
その様子を見ていた侯爵夫人が、楽しそうに笑った。
「ノアくん、驚いたでしょう? 貴族令嬢が自分で料理をしたがるなんて」
「ええ。初めて聞きました」
「なんでも自分でやりたがるのよ、この子」
「ママ!」
「もちろん、令嬢として必要なことはきちんと学んでいるし、問題もないから、私も旦那様も好きにさせているのだけど」
侯爵夫人はそう言うと、俺に少し申し訳なさそうな顔を向けた。
「ごめんなさいね、ノアくん。毎日ティアに付き合わせてしまって」
「いえ」
俺は首を横に振った。
「毎日、初めてのことばかりで楽しいです」
侯爵夫人が嬉しそうに笑う。
そのときだった。
ふいに、背中に何かが触れた。
「……え?」
次の瞬間、後ろからぎゅっと抱きしめられる。
「さすがノア! 話が分かるー!」
「……ティア?」
振り返ると、いつの間に席を立ったのか、ティアが俺の背中にくっついていた。
「なに?」
「……いや」
俺が何も言えずにいると、ミアの声が飛んできた。
「お嬢様。お食事中です」
「あ」
「ティア。さっき、令嬢として必要なことはきちんと学んでいるって話をしたところなんだけど?」
侯爵夫人まで笑いながら言う。
「ママまで!」
「だって本当でしょう?」
「……はーい」
ティアは俺から離れると、しぶしぶ自分の席へ戻っていった。
「もう。ママも余計なこと言わないでよー」
「はいはい」
侯爵夫人は楽しそうに笑っている。
リオンも、ミアも。
誰も、さっきのこと自体は気にしていない。
……気になるのは、食事中に席を立ったことだけなのか?
俺は、リオンみたいにティアの弟じゃないんだけど。
* * *
午前中。
リオンは魔法の講義があるため、別の部屋へ行っていた。
俺とティアは、昨日の座学の復習をするため、勉強部屋の長机に並んで座っていた。
「ノア、ここなんだけど」
ティアが教科書をこちらへ寄せる。
「ああ。ここは、これを当てはめれば解ける」
「なるほど……。じゃあ、この問題も同じ?」
「そう。けど、これは先にここを――」
俺が指で示すと、ティアが身を乗り出した。
「どこ?」
「ここ」
「あ、そっか!」
近い。
腕が触れそうな距離で、ティアが教科書を覗き込んでいる。
数日前なら、こんなことはなかった。
俺が近づけば、ティアのほうから距離を取ることもあった。
それが今は。
「じゃあ、これは?」
ティアが顔を上げる。
すぐ近くで、まっすぐ目が合った。
「……」
「ノア?」
「……これは、こっちを使う」
「あっ、そっちか!」
ティアはまた教科書に視線を落とした。
何も気にしていない。
問題が分かると、目を輝かせて。分からなければ、俺のほうへ身を乗り出してくる。
それだけじゃない。
今日はリオンがいない。
俺と二人きりなのに、ティアはそれすら気にしていないようだった。
数日前までの態度はなんだったんだ。
そういえば、朝もそうだ。
嬉しそうに笑ったと思ったら、突然後ろから抱きついてきた。
……あれは必要だったのか?
ティアにとっては、あれくらい普通なんだろうか。
「ノア?」
また呼ばれて顔を上げる。
「これで合ってる?」
ティアが書いた答えを見せてくる。
「……合ってる」
「やった!」
ぱっと笑う。
困る。
……はずなのに。
離れてほしいとは、思わなかった。
* * *
午後。
私とリオンとノアは、厨房にいた。
もちろん、私たちだけじゃない。料理長とメイドたちも一緒だ。
これなら何が起きても大丈夫!
……たぶん!
「姉様、次は小麦粉を入れてください」
「うん!」
「少しずつですよ」
「分かってるって!」
私は小麦粉の入った器を持ち上げた。
そーっと。そーっと……。
「きゃー!」
勢い余って器を傾けすぎた瞬間、白い粉がぶわっと舞った。
「ゴホッ、ゴホッ!」
「姉様!」
「ティア!」
一瞬で目の前が真っ白になる。
「ご、ごめん!」
「だから、少しずつって言ったじゃないですか!」
「少しずつやるつもりだったもん!」
「つもりじゃ駄目です!」
リオンが慌てて私の服についた粉を払う。
周りではメイドたちが笑いを堪えていた。
……笑ってるよね?
絶対笑ってるよね!?
「ティア」
ノアの声がする。
振り返ると、ノアはレシピを片手に、材料を確認していた。
「残りの小麦粉は料理長に任せよう。ティアはリンゴを並べる準備をして」
「あっ、うん!」
「リオンはバターを用意してくれるか?」
「はい!」
……ん?
私は言われるままリンゴの入った器を手に取った。
リオンも素直にバターを準備している。
料理長まで、なぜか満足そうに頷いている。
「……あれ?」
「どうした?」
「なんでノアが仕切ってるの?」
「このほうが早いだろ」
「そうだけど!」
……ちょっと待って。
なんでノア、こんなに段取りがいいの?
「ノアって、料理したことあるの?」
「ない」
「え?」
「厨房に入ったのも初めてだ」
「それなのに、この手際!?」
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「レシピに手順が書いてあるだろ。それに、料理長が教えてくれている」
「そうだけど!」
「なら、順番に進めればいい」
何それ。かっこいい。
「ノア、かっこいいー!!」
思ったことが、そのまま口から出た。
ノアの手がぴたりと止まる。
「……」
「ノア兄様?」
リオンが不思議そうにノアを見る。
「……次」
「え?」
「次はリンゴ」
ノアは私から顔を逸らすように、レシピへ視線を戻した。
「あ、うん!」
私は慌ててリンゴを取る。
その横で、リオンがノアの顔をじっと見た。
「ノア兄様、顔が少し赤――」
「リオン」
「はい?」
「リンゴを並べよう」
「……はい」
なんだろう?
まあ、いいか。
それからも、生地が思ったようにまとまらなかったり、リンゴを並べる順番でもめたり、私がつまみ食いしようとしてリオンに怒られたり。
なんだかんだ大騒ぎしながら、ようやく――。
「できたー!」
焼き上がったアップルパイを前に、私は両手を上げた。
甘いリンゴとバターの香りが厨房いっぱいに広がっている。
きれいな焼き色もついてる。
完璧!
……ちょっと形がいびつなところはあるけど。
それも手作りの味ということで!
* * *
焼き上がったアップルパイは、ティータイムにみんなで食べることになった。
フォークで一口切って、口へ運ぶ。
サクッとした生地。甘酸っぱいリンゴ。
「おいしい!」
私は思わず笑った。
「やっぱり、自分で作るアップルパイは格別よね!」
「ほとんどノア兄様と、メイドのみんなが頑張っていましたけどね」
リオンが呆れたように言う。
「細かいことは気にしない!」
「姉様……」
「美味しければ問題なし!」
そう言ってもう一口食べる。
うん。やっぱり美味しい!
向かいを見ると、ノアもアップルパイを食べていた。
「どう?」
「おいしい」
「でしょ!」
自分が褒められたみたいで、なんだか嬉しい。
私はノアに笑いかけた。
「ノア、今日はありがとう!」
「俺?」
「うん! ノアがいなかったら、もっと大変だったもん」
「……そうか?」
「そうだよ!」
勉強も教えてもらった。
アップルパイ作りも手伝ってもらった。
朝からいっぱい笑った。
楽しかったな。
そう思ったら、自然と言葉が出た。
「今日みたいな日が、毎日続けばいいね」
「……」
ノアが止まった。
「ノア?」
「……いや」
少しだけ間を置いて、ノアはいつものように小さく笑った。
「そうだな」
「うん!」
私も笑って、またアップルパイを口に運ぶ。
美味しい。
明日は何をしようかな。
* * *
『今日みたいな日が、毎日続けばいいね』
ティアの言葉が、なぜか耳に残った。
特別なことなんて、何もしていない。
一緒に食事をして、勉強をして、三人で騒いで笑った。
ただ、それだけだ。
なのに、今日一日を思い返すと、不思議なくらい穏やかな気持ちになる。
ティアはもう、楽しそうにリオンと話していた。
俺もここにいることが、当たり前みたいに。
――毎日、か。
それは、悪くないと思った。




