譲るつもりは、ありません
――ノア視点――
ティアの乗った馬車が、門の向こうへ見えなくなった。
それでも、しばらくその場を動けなかった。
さっきまで繋いでいた手を見る。
指を軽く曲げると、彼女の手の感触を思い出した。
――今は、嫌じゃないよ。
「……今は、か」
小さく呟いた声が、自分でもおかしいくらい浮かれていた。
嫌ではない。
好きだと言ったら、嬉しいと答えてくれた。
それが、そのまま俺と同じ気持ちだという意味ではないことくらい、わかっている。
……わかっては、いるんだけど。
口元へ手を当てた。
あんな顔をして、言われるとは思わなかった。
* * *
朝、話す時間がほしいと言われたときは、覚悟をした。
最近、少し近づきすぎていた自覚はある。
休みの日に会いに行きたいと言った。夜会では二度も誘った。
殿下に支えられていた彼女を見て、平気ではいられなかったことまで口にした。
ティアは、そのたびに戸惑っていた。
俺が何を望んでいるのか、気づいたのかもしれない。
これ以上は困ると、そう言われる可能性も考えた。
だから、長椅子で隣に座ったときも、急かせなかった。
自分から話したいと言ってくれたのだから、最後まで聞こう。
そう決めて、待っていた。
それなのに。
俺を失うのが、怖かった。
彼女が抱えていたのは、想像していたものとはまるで違う不安だった。
何を知っているのか。
どうして、自分と関わると俺が死ぬと思うのか。
詳しいことは、まだわからない。
ただ、膝の上で握られていた指と、俺を見る瞳を思い出す。
あれほど怖がっていた彼女に、考えすぎだとは言えなかった。
まずは、話せることから聞こう。
いつ、何が起きると思っているのか。
危険を避けるために、これまで何をしてきたのか。
聞きたいことは多い。
けれど、一度に答えさせたいわけではなかった。
今日、彼女はようやく口にしてくれたのだ。
俺が知らないまま、一人で距離を置こうとしていた理由を。
* * *
階段から落ちたあと、ティアは変わった。
目が合うと、少し困った顔をする。
声をかけても、返事を考えるような間があった。
近づこうとすると、どこか身構えられている気がした。
俺が何かしたのだろうか。
思い返しても、わからなかった。
だから、会える時間までなくさないように、様子を見ていた。
あの夜、怖がる彼女がそばに来たときは、嬉しかった。
頼ってくれる。
俺のそばなら安心できると、思ってくれる。
それだけで、避けられていた間の不安が薄くなった。
あれから、ティアはよく笑うようになった。
面白いことがあれば聞かせてくれたし、俺が疲れていると、気づいて声をかけてくれた。
だから、もう大丈夫なのだと思っていた。
……彼女は、ずっと迷っていたのに。
会えて嬉しいと思いながら、それでも離れなければと考えていたのだろうか。
もっと早く、尋ねればよかった。
そう思う一方で、あの頃の俺に聞けたかといえば、きっと難しかった。
戻ってきた笑顔を、失いたくなかったから。
彼女は俺を失うのが怖くて、俺は彼女との関係を失うのが怖かった。
事情は違っても、お互いに言えないままだったのか。
俺は息を吐き、ようやく門から歩き出した。
* * *
馬車へ向かう回廊で、向こうから来た殿下と目が合った。
「ノア」
足を止め、礼をする。
「まだ学園にいらしたんですね」
「ああ。君こそ、もう帰ったかと思っていた」
殿下は俺の顔を見て、少し眉を上げた。
「何か、いいことでも?」
「……顔に出ていますか」
「それはもう」
即答され、口元へ手をやりかけた。
その動きを見て、殿下が笑う。
「隠すには、少し遅いな」
普段なら、何でもないと答えただろう。
けれど、今日は。
好きだと口にしたあとで、それまでの自分に戻る気にはなれなかった。
「ティアに、気持ちを伝えました」
殿下の笑みが止まった。
それから、ゆっくりと目元が和らぐ。
「……そうか。よかったな」
からかう響きの薄い声だった。
不意を突かれて、少し黙る。
「ありがとうございます」
「では、明日からが大事だな」
殿下は短く頷き、それから口元を緩めた。
「夜会でも、彼女はずいぶん声をかけられていたようだから」
「ご覧になっていたんですね」
「あれだけ人が集まれば、目に入るよ」
ティアを囲んでいた令息たちを思い出す。
彼女が顔を向ければ、相手は嬉しそうに話し始めた。
ダンスが終われば、次の相手が声をかける。
思い出しただけで、少し面白くない。
俺は微笑んだ。
「ええ。もう、幼馴染だからと安心してはいられませんから」
殿下の目が、楽しそうに細くなった。
「なるほど。期待しているよ」
何を、と尋ねるのはやめておいた。
* * *
馬車に乗り込み、座席へ背を預ける。
窓の外で、学園の門が遠ざかっていった。
ティアは、これから考えると言ってくれた。
けれど、彼女が恋愛に目を向けた先にいるのが、俺だけとは限らない。
これまでは、誰に対しても恋愛を考えないようにしていたのだ。
その気持ちが変わったなら、ほかの誰かに惹かれる可能性もある。
今日、打ち明けてもらえたことは嬉しい。
長く抱えていた怖さを話す相手に、俺を選んでくれた。
それは、大切にしたかった。
でも、恋人として選ばれるかどうかは、別だ。
……わかってる。
だから、もう遠慮しないと言ったんだ。
夜会の彼女を思い出す。
淡い水色のドレス。
俺の言葉に赤くなった頬。
それなのに、ほかの男と話すときにも、楽しそうに笑っていた。
あの笑顔を向けられたら、また会いたくなるだろう。
次は自分から誘いたいと、思うはずだ。
誰の目にも触れない鳥籠に、閉じ込めてしまえたら。
欲しいものは、何でも用意する。
不安も不自由も感じる暇がないくらい、甘やかして、大切にして。
あの笑顔を、俺だけに向けてほしい。
……それでも、出たいと言われたら。
差し出した手を避けられたら。
俺を見る目から、親しさが消えてしまったら。
想像しただけで、胸が冷えた。
嫌われたくない。
俺に会えて嬉しいと笑う彼女を、失いたくない。
欲しいものを並べたところで、彼女が笑ってくれるとは限らないのだ。
だから、鍵はかけられない。
差し出すのは、手だ。
彼女が、自分から取ってくれるように。
そのためなら、いくらでも優しくできる。
「……ずいぶん、欲張りだな」
一人になった馬車の中で、小さく笑う。
そばにいられれば十分だと思おうとしていた。
けれど本当は、一度だって、誰かに譲りたいと思ったことはなかった。
ティアが俺を選ばなければならない理由など、ない。
だからこそ、これからだ。
ポケットから手帳を取り出し、予定を確かめる。
今度の休みは、リオンとの約束があると聞いている。
そこへ入り込めば、ティアを困らせるだろう。
なら、その次。
彼女が今、何に興味を持っているのか聞いてみよう。
話を聞くだけで終わらず、今度は一緒に出かけたい。
学園で会うだけではなく、俺と過ごすために予定を空けてくれたら。
……それは、嬉しいだろうな。
まだ誘ってもいないのに、もう返事が気になっている。
手帳を閉じたところで、彼女の声を思い出した。
――でも、聞けて嬉しい。
胸の奥が、どうしようもなく緩む。
好きだと伝えても、彼女は手を離さなかった。
戸惑いながら、それでも、嬉しいと答えてくれた。
もう一度、好きだと伝えたい。
今度はその言葉を知ったうえで、俺と過ごしてほしい。
明日、会ったら、どんな顔をするだろう。
俺を見て今日のことを思い出して、また少し頬を赤くしてくれるだろうか。
そう考えると、口元が緩んだ。
今から、彼女に会うのが楽しみだった。




