もう、幼馴染だけではいられない①
教室へ入ると、ノアは窓際で本を開いていた。
「おはよう、ティア」
「おはよう!」
顔を上げて笑ってくれた、その瞬間。
……あ。
いつものノアだ。
ほっとして、私まで笑いそうになる。
このまま昨日の授業の話でも始めたら、きっと普通の一日になる。
でも、今日は。
鞄を机へ置き、私はもう一度ノアへ向き直った。
「あのね。少し、話す時間をもらってもいいかな」
ノアの指が、本の上で止まった。
「……今?」
「ううん。放課後とか。少し、落ち着いて話せるときがいいんだけど」
彼は本を閉じた。
「うん。今日は用事もないから」
「ありがとう」
言えた。
まずは、一つ。
それだけで肩の力が抜けかけたところで、ノアが私を見た。
「困ってること?」
「……うまく話せるかわからないけど、聞いてほしいことがあるの」
今朝、リオンに教えてもらった言葉。
口にしてみると、思っていたより素直に出てきた。
ノアは私の顔を確かめるように見て、それから頷いた。
「わかった。放課後、時間を取っておくね」
* * *
二人で向かったのは、庭園の奥にある長椅子だった。
回廊から姿は見えるけれど、近くを歩く生徒は少ない。
ここなら、小さな声で話せそうだ。
先にリオンには、ノアと話してから帰ると伝えておいた。
迎えの馬車までは、まだ時間がある。
……準備は、できている。
できているんだけど。
隣に座ったノアを見ると、用意していた最初の一言が出てこなかった。
「ティア」
「は、はい」
「ゆっくりでいいよ」
いつもと同じ、優しい声だった。
私は膝の上で手を重ね、息を吸った。
「私ね。今まで、ノアのことを恋愛の相手として考えないようにしてたの」
隣が静かになった。
慌てて顔を上げる。
ノアは私を見ていた。けれど、その表情が少しだけ強張っている。
「……うん」
「嫌だったからじゃないよ」
そこだけは、すぐに言いたかった。
「ノアといるのは楽しいし、会えたら嬉しい。でも、それより先のことは、考えちゃ駄目だと思ってた」
「どうして?」
静かに尋ねられ、指先に力が入った。
ここからだ。
「私と関わることで、ノアが……死んでしまうかもしれないって、怖かったから」
ノアの目が、わずかに見開かれた。
風に揺れる葉の音が聞こえる。
私は視線を落としそうになって、それでも彼を見た。
「意味がわからないよね。どうしてそう思うのか、まだ、全部は説明できないの」
前世のことも、ゲームのことも。
いつか話せるのか、今はわからない。
でも、ここで曖昧にしてしまったら、何を伝えに来たのかわからなくなる。
「ただ、何となく心配しているだけじゃなくて。そうなるかもしれないって思う理由が、あるの」
「……ティアが近づくと、僕が危ない目に遭うと思っていたんだね」
「うん」
声にすると、また怖くなった。
「ノアに、何も起きてほしくない。私のせいで、会えなくなるのは嫌なの」
最後の方は、少し声が小さくなった。
ノアは、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が怖くて、膝の上の指を握る。
やっぱり、困らせてしまった。
そう思いかけたとき、彼が口を開いた。
「話してくれて、ありがとう」
顔を上げる。
「……変だと思わないの?」
「驚いてるよ。わからないことも、たくさんある」
ノアは私を見た。
「でも、ティアが怖がっていたことまで、嘘だとは思わない」
胸が、きゅっとした。
何と言えばいいかわからずにいると、彼は少し考えてから尋ねた。
「……あの頃、僕を避けていたのは、それで?」
「気づいてたの?」
「うん。階段から落ちたあと、急に話しにくそうにしていたから」
ノアの視線が、一度、私の手元へ落ちた。
「僕が何かしたのかと思ってた」
胸が痛くなった。
……そうだ。
昨日、私も考えたばかりだった。
何も説明されずに避けられたら、嫌われたのかなって不安になる。
ノアにも、そんな思いをさせていたんだ。
「ごめんね。ノアが何かしたわけじゃないの」
「……うん。僕が何かしたわけじゃなかったんだね」
ノアは小さく息を吐いた。
それから、少しだけ表情を和らげる。
「でも、あの夜は頼ってくれたでしょう?」
「あの夜?」
「お化けが怖くて、眠れなかったとき」
思わず、口を閉じた。
……覚えています。
それはもう、よく。
「ノアのそばなら、大丈夫だと思ったから……。
それにもしかしたら、ノアも怖いかも知れないと思ったから。」
小さく答えると、彼の口元が緩んだ。
「僕は、嬉しかったよ」
「……嬉しかったの?」
「頼ってくれたから。あれから普通に笑ってくれるようになって、ほっとした」
私には、怖くて頼ってしまった夜だった。
ノアがいてくれてよかったと、そればかり思っていた。
ノアも、あの夜を覚えていたんだ。
私とは、少し違う理由で。
「……離れた方がいいと思ってたのに、会えると嬉しくなっちゃって」
指先を見つめながら、続ける。
「ノアが来てくれると喜んでた。自分でも、何をしてるんだろうって」
「……あの頃も、会えると嬉しかった?」
「うん。今も、会えると嬉しいよ」
そこを聞き返されると、恥ずかしいんですけど。
けれど、今日はごまかさないと決めたのだ。
ノアの手が、隣で動いた。
私に触れる前に止まる。
「手、繋いでもいい?」
私はその手を見て、小さく頷いた。
重ねられた指が、ゆっくり私の手を包む。
「何も起きないって、今の僕には約束できない。だから、気にしなくていいとも言えないよ」
私は小さく頷く。
「ただ、何かわかっていることがあるなら、少しずつ教えてほしい。危ないかもしれないって知ったうえで、僕も考えたい」
ノアの声は落ち着いていた。
「どうすればいいのか、ティアと一緒に」
視界が少し滲みそうになって、慌てて瞬きをする。
「そばにいてほしいって言ったら、ノアを危ない目に遭わせるかもしれないんだよ」
「うん。だから、どうすればそばにいられるかを考えよう」
返事が出なくなった。
離れるか、危険を忘れるか。
ずっと、その二つばかり考えていた。
ノアは、どちらも簡単には選ばなかった。
「……一緒に考えてくれるの?」
「もちろん」
彼が、私の手を握り直す。
「僕のことなんでしょう?」
……そうだ。
私が守りたいと思っている、この人自身のことなんだ。
私は小さく頷いた。
胸のつかえが、少しずつほどけていく。




