弟の冗談は、少しだけ本気?
翌朝、馬車へ乗り込んでからも、私は頭の中で言葉を並べていた。
ノア、少しお話ししたいことがあるんだけど。
……うん。普通。
でも、その次が難しい。
今まで、恋愛のことを考えないようにしていました。
いや、急に何の発表!?
心の中で言い直していると、向かいから小さく笑う声がした。
「姉様」
「……え?」
「先ほどから、何と戦っていらっしゃるんですか?」
顔を上げると、リオンが膝の上の本に手を置き、私を見ていた。
「戦ってないよ?」
「では、難しい問題でも?」
「……そんな感じかな」
答えると、弟はそれ以上尋ねず、頷いた。
その落ち着きが、今朝は少し羨ましい。
私も、それくらい何でもない顔で話せたらいいのに。
「ですが、昨日よりは、すっきりしたお顔ですね」
「そう?」
「ええ。昨日は、何か気にしていらっしゃるようでしたから」
……よく見てるなぁ。
昨日の帰りは、図書館で話したことが頭から離れなかった。
家へ帰ってからも、結局、復習はできなかったし。
でも、今朝は違う。
怖い気持ちが消えたわけではないけれど、何をしたいのかは決められた。
私は鞄の上で、そっと手を重ねた。
「少し、考えがまとまったの」
「それは、よかったです」
リオンが微笑む。
その顔を見ていたら、何となく、話してみたくなった。
* * *
「ねえ、リオン」
「はい」
「私、今まで恋愛のことって、あまり考えないようにしていたんだけど」
弟の指が、本の表紙の上で止まった。
「……ええ」
「でも、最初から避けるんじゃなくて、少し考えてみようかなって」
言ってから、急に照れくさくなった。
……朝から、弟に何を報告しているんだろう。
窓の外へ目を向けても、見慣れた道が続いているだけだった。
都合よく、話題を変えられそうなものは見つからない。
「まだ、何か決めたわけじゃないんだよ?」
「はい」
「ただ、嬉しかったことまで、なかったことにしなくてもいいのかなって」
そこまで言って、リオンへ目を戻す。
弟は静かに聞いていた。
からかうでもなく、続きを急かすでもなく。
だから、もう少しだけ話せた。
「自分の気持ちくらいは、ちゃんと考えようと思ったの」
リオンは一度目を伏せ、それから口元を緩めた。
「そうですか。それは、よかったです」
「……そうかな」
「姉様が、ご自分でそう思われたのでしょう?」
「うん」
「でしたら、僕も嬉しいですよ」
ほっとして、肩の力が抜けた。
話してみて、よかった。
少し照れくさいけれど、こうして聞いてもらえると――。
「では、僕も姉様の恋愛対象に入れていただけるんでしょうか?」
私は、リオンを見た。
……え。
今、何て?
弟は綺麗な顔で、にっこりと微笑んでいる。
「リ、リオン?」
「はい」
「リオンは、弟でしょう!?」
思わず声が大きくなった。
慌てて周りを見てから、馬車の中だったと思い出す。
いや、誰もいないけど!
私たち二人だけだけど!
リオンは私を見たまま、少しだけ間を置いた。
「……ふふ。冗談ですよ」
楽しそうに笑う。
「そんなに驚かないでください」
「驚くよ!もう、朝からびっくりさせないで!」
胸へ手を当てると、リオンがくすくす笑った。
……うちの弟、最近、本当にからかうのが上手になっている。
「姉様が、ずいぶん緊張していらしたので」
「それで、どうして私を驚かせることになるの?」
「今は、少し力が抜けたでしょう?」
「……それは、そうだけど」
じっと見ると、リオンは何も言わずに微笑んだ。
何だか、うまく丸め込まれた気がする。
けれど、さっきまで考えていた言葉が頭から飛んでしまったのも本当で。
結局、私まで笑ってしまった。
* * *
馬車が角を曲がり、座席が小さく揺れた。
リオンは本が滑らないように押さえてから、私へ目を戻す。
「ですが、姉様」
「ん?」
「誰かを気にしていても、僕と過ごす時間は残しておいてくださいね」
「それは、もちろん!」
今度は、すぐに答えられた。
「リオンとお茶をしたり、帰りにお話ししたりするのも、大事だもの」
弟の表情が、少し柔らかくなる。
「では、次のお休みのお約束も?」
「覚えてるよ!リオンと過ごすって約束したでしょう?」
「ええ。楽しみにしています」
嬉しそうに言われて、私も頬が緩んだ。
「どこか、行きたいところがある?」
「姉様は?」
「うーん……お店も見たいし、ゆっくりお話もしたいね」
考えているうちに、少し楽しくなってきた。
いつも帰りの馬車では話しているけれど、学園に着けば、通う場所は別々だ。
リオンの授業の話も、全部聞けているわけではない。
「この前、パパのお知り合いから聞いた魔法のお話も、まだ途中だったでしょう?」
「夜会のときの?」
「うん。どんなお話を聞いたのか、あとで教えてもらおうと思ってたの」
リオンが、少し目を丸くした。
「覚えていらしたんですね」
「もちろん。楽しそうに聞いていたもの」
弟は私を見つめ、それから膝の上の本へ目を落とした。
表紙を撫でる指が、ゆっくり動く。
「……では、お休みの日に続きを」
「うん!楽しみにしてる」
私が頷くと、リオンも顔を上げた。
その笑顔が、さっき私をからかっていたときより、ずっと柔らかい。
「姉様、大好きです」
「ふふ。私も大好きだよ!」
いつものように返す。
けれど、リオンはすぐには何も言わなかった。
私の顔をじっと見ている。
「……リオン?」
呼ぶと、弟はようやく微笑んだ。
「はい。知っています」
……もう。
自分から言ったのに、その返事なんだ。
少しおかしくなって笑うと、リオンも向かいで笑った。
* * *
学園の門が近づいてきた。
私は鞄を持ち直し、そっと息を吸う。
今日は、ノアに会う。
朝の教室で、いきなり全部話す必要はない。
まずは、少し時間をもらえるか聞いてみよう。
……うん。
それなら、言える。
「姉様?」
顔を上げると、リオンが私の手元へ目を向けていた。
「持ち手、そんなに握らなくても逃げませんよ」
「……あっ」
慌てて指の力を抜く。
弟が小さく笑った。
「また、難しいお顔に戻っていますよ」
「ちゃんと話せるかなって、考えてたの」
口にしてから、鞄へ視線を落とす。
「少し、聞いてもらいたいことがあって。でも、どう話せばいいか、まだ迷ってて」
「最初に、そうお伝えしてはいかがですか?」
「そうって?」
「うまく話せるかわからないけれど、聞いてほしいことがある、と」
私は顔を上げた。
……そっか。
それで、いいんだ。
最初からわかりやすく、順番どおりに説明しようとしていた。
でも、試験の答えを発表するわけじゃない。
相手は、ノアだ。
「……ありがとう。そう言ってみる」
リオンは頷いた。
誰に話すのかは、尋ねなかった。
馬車が止まり、先に下りた弟が手を差し出す。
「どうぞ、姉様」
その手を借りて地面へ下りると、朝の空気が頬に触れた。
昨日と同じ学園。
いつもと同じ、登校する生徒たちの声。
隣へ並んだリオンが、少しだけ顔を寄せる。
「お休みの日は、僕の番ですからね」
……ふふ。
そこは、忘れないんだ。
「わかってるよ。約束でしょう?」
答えると、弟は満足そうに頷いた。
私は鞄を持ち直し、校舎へ目を向ける。
ノアに会ったら、まずは、おはよう。
そのあとに、一つだけ。
少し、話す時間をもらってもいいかなって。




