怖くても、ちゃんと向き合いたい
その夜、私は机の前でペンを握ったまま、考え込んでいた。
目の前には、開いたままのノート。今日教えてもらった植物の名前と、その横に書き足した小さな印が並んでいる。
……勉強の復習をするつもりだったんだけど。
さっきから、同じところばかり見ている。
これでは、植物の名前も覚えられません。
「にゃあ」
足元から声がした。
見下ろすと、ルゥが私を見上げていた。
「……何でもないよ?」
言ってから、少し笑ってしまう。
何も聞かれていないのに。これじゃ、自分から何かありますと言っているようなものだ。
ペンを置き、ルゥを抱き上げる。
「今日ね、少し相談に乗ってもらったの」
膝へ乗せると、ルゥはおとなしく収まった。
その背中を撫でながら、昼間の言葉を思い返す。
――寂しいと思ったことまで、悪いことにしなくていいだろう。
ノアと踊って、嬉しかった。
ほかの方と踊る姿を見たら、寂しかった。
それから、図書館でルシア様に会えると、楽しい。
……何だか、私の気持ち。
思っていたより忙しいね。
* * *
ルゥを抱いたまま、寝台へ移動した。
ノートは机に置いてきた。今日はもう、復習は諦めよう。
「ねえ、ルゥ」
青灰色の目が、こちらを向く。
「私、ずっと、恋愛には関わらないって決めていたんだよね」
小さく話すと、ルゥの尻尾がゆっくり動いた。
怖かったから。
階段から落ちて、前世を思い出した。
ここが、何度も遊んだ乙女ゲームの世界だと気づいた。
ゲームでは、私――セレティアと関わった攻略対象たちが、次々と死んでしまった。
選択肢を変えて、違うルートも見た。
それでも、最後には彼らを失った。
だから、攻略対象には近づかない。必要以上には関わらない。
もちろん、恋愛もしない。
そうすれば、同じ結末を避けられるかもしれないと思った。
……でも。
ノアとは、もう何年も一緒に過ごしている。
心配して会いに来てくれた日も、何でもないことで笑い合った日もあった。
離れなければと思いながら、結局、そばにいることを選んできた。
「……今さら、何も感じていないふりをしてもね」
呟くと、ルゥが前足を私の手へ乗せた。
その小さな足を、指先で撫でる。
ノアがそばにいてくれると、嬉しい。
笑ってくれると、私まで楽しくなる。
最近は、それだけではない気持ちもある。
手を繋いで、どきどきした。綺麗だと言われて、照れた。
誰かと踊る姿を見て、寂しくなった。
そのたびに、幼馴染だからだと理由を探していた。
……でも、「幼馴染だから」で片づけたって、ノアに何も起こらない保証にはならないんだ。
恋じゃないことにすれば大丈夫。
そんな決まりがあるわけでもないのに。
私は、そっと息を吐いた。
今の世界は、ゲームと全部同じではない。
リリアは薬草の話を楽しそうにしているし、ローゼリア様とも仲良くなった。
三人でお茶を飲む時間は、私にとって大切な楽しみだ。
ゲームの中の役割だけでは、もう二人を説明できない。
ノアだって、同じだ。
攻略対象だと知っている。
でも、今の私が知っているのは、困ったときに話を聞いてくれて、冗談を言って笑うノアだった。
* * *
「……ノアを、失いたくないんだよ」
口にすると、胸が苦しくなった。
明日も学園で会える。
名前を呼べば、振り向いてくれる。
その当たり前がなくなるなんて、考えたくない。
ルゥが顔を上げ、私の胸元へ額を寄せた。
「……ふふ。ありがとう」
抱き寄せると、温かな体が腕に収まる。
背中へ頬を寄せ、ゆっくり息を吐いた。
ゲームと違うところがあるから、大丈夫。
そう簡単に思えたら、よかった。
でも、もし同じことが起きたら。
あの結末を知っていたのに、と。
きっと、何度も思い返してしまう。
ルシア様も、何も起こらないとは言わなかった。
ただ、嬉しかったことまで、なかったことにする必要はないと、言ってくれた。
あの方の前では、気づけば思っていたことを話していた。
うまく説明できなくても、言葉が出てくるまで待ってくれるから。
……ずいぶん、聞いてもらっちゃったな。
けれど、そのおかげで、今もこうして考えていられる。
「怖いからって、ノアのことを考えないようにするのも、違うのかな」
好きかどうかを、今すぐ決めなくてもいい。
でも、大切な人だということまで、ごまかしたくはなかった。
守りたいから離れる。
そう考えてきたけれど、ノアの気持ちは聞いていない。
理由を言わずに距離を取ったら、きっと困らせる。
私だったら、嫌われたのかなって気になると思う。
……ノアにそう思わせたいわけじゃ、ないんだけど。
それなのに、何も説明しないまま、私だけで離れようとしていた。
ルゥの背中を撫でていた手が止まる。
「話して、みようかな」
青灰色の目が、私を見た。
「ちゃんと説明できるかは、わからないけど」
前世の記憶があるなんて、急に言われても困るだろう。
ゲームの登場人物だと話すのも、何か違う。
今、私のそばにいるノアに、何をどう伝えればいいのだろう。
少し考えてから、ルゥへ目を落とす。
「私と関わったら、ノアに何か起こるかもしれないって……それで、怖かったんだって」
口にしてみて、眉が下がった。
「……いきなりこれだと、びっくりするよね」
私だって、びっくりする。
何が起こるの、どうしてそう思うのって、聞きたくなるはずだ。
全部答えられるかは、わからない。
それでも、恋愛の相手として考えないようにしていたこと。
嫌いだから避けたかったわけではないこと。
そこは、ちゃんと伝えたい。
……うう。
頭の中では考えられても、本人を前にしたら難しそう。
でも、ノアなら。
うまく話せなくても、最後まで聞いてくれる気がした。
「ノアがどう思うかも、聞いてみたい」
怖い未来を変えられるのか。
何に気をつければいいのか。
まだ、わからないことばかりだ。
でも、全部わかってから話そうとしていたら、いつまでも言えないかもしれない。
私はルゥの頭を撫で、小さく頷いた。
「よし。ちゃんと、話す」
これが恋なのかは、まだわからない。
けれど、嬉しかったことも、寂しかったことも。
次からは、なかったことにせずに考えてみよう。
ルゥが短く鳴いた。
私はその顔を覗き込み、少し笑う。
「……何だか、ちゃんと話せる気になってきた」
けれど、明日、ノアを見たら。
いつものように笑いかけられて、それだけで慌てて。
用意した言葉を、全部忘れてしまうかもしれない。
……うん。
そこまで想像できちゃうんですけど。
「先に、何を言うか考えておこうかな」
「にゃ」
「でも、長くなりそう。お手紙みたいになったら、どうしよう」
大事なお話があります。
……駄目だ。
それだけで、ノアに心配されそう。
ルゥが私の指へ鼻先を寄せた。
撫でていた手が、また止まっていたらしい。
「ごめん、ごめん。今日は、もう寝ようね」
額へそっと口元を寄せ、それから寝台の上へ下ろす。
私が布団へ入ると、ルゥもいつものように腕のそばへ来た。
その背中へ手を添える。
怖くなくなったわけではない。
でも、一人で考えていたときとは、少し違う。
今度ルシア様に会ったら、お礼を言おう。
それから、ノアと話せたら、そのことも聞いてもらいたい。
……また、相談が増えちゃうかな。
そんなことを思いながら、私は小さく笑った。
「おやすみ、ルゥ」
明日は、ノアに話す時間を作ろう。
心の中でもう一度決めて、目を閉じた。
* * *
やがて寝息が聞こえ始めると、ルゥは顔を上げた。
眠る彼女の眉間には、もう力が入っていない。
……少しは、楽になったか。
今夜、何度も止まっていた手が、背中に添えられている。
ルゥはその手の下で、静かに身を丸めた。
彼女の悩みが、すべてわかったわけではない。
それでも、話すうちに声が少し明るくなったことは、わかった。
また話したくなったら、何度でも聞いてやろう。
うまく言葉にならなくても、急がせるつもりはなかった。
細い指へそっと額を寄せると、眠ったままの彼女の手が、わずかに動いた。
それだけのことで、ルゥもようやく目を閉じる気になった。




