今度こそ、お名前を教えてください!
夜会の翌々日。
学園の正門をくぐったところで、後ろから声をかけられた。
「セレティア様。先日は、ありがとうございました」
振り向くと、一緒に踊った令息が立っていた。
「あっ、おはようございます! こちらこそ、ありがとうございました」
「温室のお話、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんです!先生に伺ってみようと思っていたんです」
答えると、彼が嬉しそうに笑う。
「ご覧になれたら、感想を聞かせてください」
「はい!」
礼をして別れた、そのすぐあと。
「セレティア嬢、おはようございます」
「夜会では、ゆっくりお話しできませんでしたね」
今度は別の方々だ。
慌てて挨拶を返し、少し話してから歩き出す。
……あれ。
校舎まで、まだ半分も進んでいない。
「姉様」
隣のリオンを見上げると、弟は穏やかに微笑んでいた。
「何人の方と、お話しされたんですか?」
「何人だろう。途中から、数えていなかったかも」
「……そうですか」
その笑顔が、少し深くなる。
「ご挨拶に伺っている間も、ずいぶんお忙しかったんですね」
「うん。でも、楽しかったよ!」
話したいことを思い浮かべていると、向こうから来た令嬢たちの声が聞こえた。
「ノア様、主催のお嬢様と踊っていらしたそうね」
「お父様同士も、親しくしていらっしゃるのでしょう?」
足が、ほんの少し遅くなった。
……知ってる。
私も、見ていたもの。
家の付き合いだと、ノアも話してくれた。
それなのに、ほかの人から聞くと、また少し気になる。
「姉様?」
顔を上げると、リオンが私を見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「ううん。夜会の話って、すぐに広まるんだね」
答えると、弟は令嬢たちが去った方へ一度目を向けた。
それから、私へ微笑む。
「姉様のお話も、広まっているようですよ」
「私の?」
「ええ。先ほどから、皆さん嬉しそうにご挨拶されていますから」
……そうでした。
ノアのことを気にしている場合じゃなかった!
私は背筋を伸ばし、弟と校舎へ向かった。
* * *
教室へ入ると、ノアがこちらを向いた。
「おはよう、ティア」
「おはよう!昨日はゆっくり休めた?」
「うん。ティアは?」
「私も!ルゥと一緒に、朝寝坊しちゃった」
答えると、ノアが笑った。
いつもの顔。
それだけで、さっきの胸の引っかかりが少し薄くなる。
鞄を机へ置いていると、ノアがそばへ来た。
「……夜会の話、聞いた?」
「え?」
顔を向ける。
ノアは少しだけ声を落とした。
「僕が、誰と踊っていたとか」
「ああ。さっき、少しね。でも、事情は知ってるよ?」
お父様に紹介された方でしょう、と続けると、彼は頷いた。
「うん。ただ、それだけで、いろいろ言われているみたいだから」
「私も、いっぱいお話ししたよ。学園でも、挨拶していただいて」
そう言うと、ノアの目が一度だけ細くなった。
「……そうみたいだね」
ん?
どうして、そこは少し楽しそうじゃないの?
首を傾げると、ノアは小さく息を吐いてから、私を見た。
「でも、僕がまた踊りたいと思ったのは、ティアだよ」
手が止まった。
すぐには、顔を上げられなかった。
「……うん」
「だから、また付き合ってね」
ようやく見ると、ノアは私の返事を待っていた。
「もちろん。せっかく練習したんだもの」
答えた途端、彼の表情が柔らかくなる。
その顔を見て、私もほっとした。
……今、安心したよね、私。
理由を考える前に始業の鐘が鳴り、私は慌てて教科書を取り出した。
* * *
昼食を終えると、ローゼリア様は先生に呼ばれて席を立った。リリアも、借りている本を返しに行くという。
私は薬草について調べたいことがあったので、図書館へ向かうことにした。
リリアとは入口まで一緒に歩き、返却台の前で別れる。
……本を見ていたら、少し頭も落ち着くかもしれない。
朝から何度も、ノアの言葉を思い出してしまう。
また踊りたいと思ったのは、ティア。
……もう。
教科書を開いているときまで、思い出さなくてもいいでしょう!
棚の案内を確かめ、植物の本が並ぶ奥へ進む。
目当ての図鑑は見つかった。けれど、その隣にも気になる背表紙がある。
『古い森の植物と、その利用』
……何、その気になる題名。
指をかけたものの、両隣の本に挟まって、うまく抜けない。
もう少し、と引きかけたところで、横から声がした。
「押してから引くと、取りやすい」
私は顔を上げた。
銀灰色の髪。
薄い青灰色の瞳。
……え。
「あっ、夜会の!」
思わず声が大きくなり、慌てて口元を押さえる。
青年が、楽しそうに目を細めた。
「覚えていたんだな」
「もちろんです!」
小声で答えてから、私は彼へ向き直った。
今度こそ。
今度こそ、先に聞かなくちゃ!
「今日は、お名前を伺ってもいいですか?」
青年が一瞬、目を見開いた。
それから、笑う。
「……ルシアだ」
私は、その音を心の中で繰り返した。
ルシア。
「ルゥと、少し似ていますね」
「そうか。覚えやすいだろう?」
「はい。もう忘れません」
答えると、彼の笑顔が少し変わった。
嬉しそうなのに、どこか静かな顔。
見つめられて落ち着かなくなり、私は本へ目を戻した。
「こちらに、よくいらっしゃるんですか?」
「最近はね。調べたいものがあって」
そう言って、彼は手にしていた本を軽く持ち上げた。
学生服ではないし、先生とも少し雰囲気が違う。
何か調べ物にいらした方なのかな。
「ルシア様も、植物を?」
「その本には、少し興味がある」
示されたのは、私が抜こうとしていた本だった。
「あっ、では、ご覧になりますか?」
「君が先だ。……少し押してみて」
言われたとおり、本を奥へ押す。
両隣との隙間ができたところで引くと、今度はすっと抜けた。
「取れた!」
「よかったな」
嬉しくなって表紙を見る。
厚い。
思っていたより、ずっと厚い。
「……お昼休みで、読み終わるかな」
「全部読むつもりだったのか?」
顔を上げると、ルシア様が笑いをこらえていた。
……確かに。
最初から最後まで読まなくてもいいよね!
窓際の閲覧席へ、向かい合って座る。
本を開くと、見慣れない言い回しが並んでいた。
植物の絵はある。
説明も、読めないわけではない。
けれど。
「……この名前、初めて見ました」
挿絵の下を指で追っていると、ルシア様が少し身を乗り出した。
「今は、別の名で呼ばれている」
「ご存じなんですか?」
彼が口にした名前に、私は目を丸くした。
「これが!?図鑑の絵と、少し違いますね」
「育つ場所で、葉の形が変わる。こっちは森の奥にあるものだ」
「へえ……!」
思わず、絵へ顔を近づける。
説明を読み返すと、確かに今の名前へ繋がりそうな特徴が書かれていた。
「本当だ。じゃあ、この使い方も――」
「今は、あまり勧められないな。似た植物と間違えやすい」
「なるほど……」
話を聞きながら、持ってきたノートを開く。
気づいたことを書き留めていると、向かいから小さな笑い声がした。
顔を上げる。
「……また、夢中になっていました?」
「うん」
「すみません。お話ししていたのに」
「謝らなくていい。見ていて飽きないから」
ペンが止まった。
……あの。
本ではなくて、私を見ていたんですか?
ルシア様は、当然のようにこちらを見ている。
「夜会でも、そんな顔をしていた」
「どんな顔ですか?」
「面白いものを見つけて、誰かに教えたくなった顔」
言い返そうとして、できなかった。
今、まさに。
次にノアやリリアに会ったら、この本のことを話したいと思っていたから。
「……わかりやすいですね、私」
「そこがいい」
また、さらっと言う。
返事に困って本へ目を落とすと、ルシア様は少しだけ声を和らげた。
「ここで会えたのは、嬉しいよ」
「……私も」
顔を上げる。
「お名前、聞きたかったので」
彼が一瞬黙り、それから笑った。
「それだけ?」
「本のお話も、聞けてよかったです!」
慌てて足すと、ますます楽しそうになる。
……何だか、この方にはすぐ笑われてしまう。
でも、嫌ではなかった。
* * *
時計を見て、私は慌てて本を閉じた。
「あっ、戻らないと!」
「授業か?」
「はい。……もう少し読みたかったんですけど」
表紙へ目を落とす。
ルシア様も、この本に興味があると言っていた。
借りてしまっていいのか迷っていると、彼が立ち上がった。
「先に借りるといい」
「でも」
「俺は、別の本を見ているから」
それなら、と頷き、図鑑と一緒に抱える。
「今日は、ありがとうございました」
「どういたしまして」
一歩進んでから、私は振り返った。
「……明日も、いらっしゃいますか?」
尋ねると、ルシア様の視線が私へ戻った。
「君は?」
「お昼休みに。この本を読んで、わからないところを聞きたいので」
言ってしまってから、少し慌てる。
「もちろん、ご迷惑でなければ!」
「迷惑じゃない」
返事は、早かった。
彼は私を見て、ゆっくり笑う。
「じゃあ、またここで」
……あ。
それは、約束だった。
嬉しくなって、私は頷く。
「はい。また明日!」
今度は声を大きくしないように気をつけて、閲覧席を離れた。
抱えた本は、少し重い。
でも、足取りは来たときより軽かった。
名前を聞けた。
本のことも、たくさん教えてもらえた。
ルシア様。
心の中でもう一度呼んでみると、あの笑顔が浮かんだ。
……次は、どんなお話ができるかな。
そう考えながら、私は教室へ向かった。




