お留守番の猫には、隠せません!
ノアと別れ、家族と馬車へ乗り込んだ頃には、すっかり夜が更けていた。
座席へ腰を下ろすと、思っていたより足が疲れていることに気づく。
……いっぱい踊ったもんなぁ。
そっと足を揃え直したところで、向かいのリオンと目が合った。
「姉様。お疲れですか?」
「少しね。でも、楽しかった!」
答えると、隣のママが微笑んだ。
「ええ。楽しそうにしていたものね」
「うん!温室に珍しい薬草があるって教えていただいたし、ローゼリア様ともお話しできたし」
指を折りかけて、途中でやめる。
あれも、これも。
話したいことが、多すぎる。
パパが、少し安心したように息をついた。
「そうか。無理をしていなかったなら、よかった」
「途中で休憩もしたよ。ママに教えてもらったテラスで」
言うと、リオンがこちらを見た。
「テラスにいらしたんですね」
「うん。風が気持ちよくて」
銀灰色の髪が、頭に浮かぶ。
「あっ、そうだ。リオンは、銀灰色の髪の方を見かけなかった?」
「銀灰色、ですか?」
「背が高くて、薄い青灰色の目をした方。そこで少し、お話ししたの」
リオンは考えるように目を伏せた。
「……いえ。僕は、見ていませんね」
「そっか。ローゼリア様も、ご存じなかったんだよね」
「お名前は?」
「聞こうとしたところで、ノアが来て。それで、聞きそびれちゃった」
パパが、ゆっくり私へ顔を向ける。
……あ。
そのお顔、知ってます。
「ティア。知らない相手と、二人でいたのか?」
「すぐ後ろが広間だったし、ママからも見える場所だったよ。少し話しただけ」
「それでもだな――」
「テラスから戻ってくるところは、私も見ていましたよ」
ママが、穏やかに口を挟んだ。
「ノアくんと一緒でしたから」
「……そうか」
パパの肩から、少しだけ力が抜ける。
ノア、今ここにいないのに、助けてくれた。
心の中でお礼を言っていると、リオンがにっこりと笑った。
「では、次は僕にも紹介してくださいね」
「またお会いできたらね。猫のお話を聞いてくださる方だったよ」
「……猫」
弟の微笑みが、少し深くなった。
「姉様は、どこでもルゥのお話をなさるんですね」
……それ、ローゼリア様にも似たようなことを言われた!
* * *
屋敷へ戻ると、ミアが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま!ねえ、ミア。ドレス、最後まで綺麗だった?」
「はい。どこも崩れていませんよ」
「よかった!」
ほっとした途端、急に眠気がやってきた。
あれだけ話したいと思っていたのに。
帰ってきたら、体が休む準備を始めたらしい。
「お話は、お支度を解きながら伺いますね」
「うん。いっぱいあるから、覚悟してね」
「楽しみにしております」
ミアと部屋へ向かう。
扉を開けた、そのときだった。
「にゃあ」
銀灰色の猫が、寝台から顔を上げた。
「ルゥ!ただいま!」
声をかけると、軽やかに床へ下りてくる。
足元へ近づいたところで抱き上げようとして、ドレスの裾に気づいた。
……そうでした。
まだ着替えていません!
「ちょっと待ってね。着替えたら、いっぱい抱っこするから」
ルゥは私を見上げ、それからドレスへ目を向けた。
尻尾が、ゆっくり揺れる。
「どう?似合ってる?」
つい尋ねると、小さく鳴いた。
「にゃ」
「ふふ。ありがとう」
「お褒めいただけたようですね」
ミアが笑い、私も頷く。
そういうことに、しておこう!
* * *
髪飾りを外してもらい、ドレスを脱ぎ、湯浴みを済ませる。
寝間着へ着替える頃には、足がずいぶん軽くなっていた。
「……はぁ。やっぱり、落ち着く」
寝台へ腰を下ろすと、待っていたようにルゥが隣へ跳び乗った。
今度こそ抱き上げ、膝へ乗せる。
「お待たせ。いい子で待っていてくれた?」
喉の下を撫でると、ルゥは目を細めた。
ミアへ夜会の話をしている間も、ずっと足元にいたのだ。
今夜は、いつもより甘えたい気分なのかもしれない。
「では、私は隣のお部屋におります。何かありましたら、お呼びください」
「うん。ありがとう、ミア。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、私はルゥの背中へ手を滑らせた。
「ねえ、聞いて。今日、ルゥに似た方に会ったんだよ」
尻尾の先が、ぴたりと止まった。
「髪の色も、目の色も、少し似ていたの。すごく綺麗な方だった」
思い出す。
風に揺れた銀灰色の髪。
私の話を聞いて、楽しそうに細められた目。
ルゥが、顔を上げた。
「にゃあ」
「うん。ルゥも綺麗だよ?」
そう返すと、前足が私の手へ乗った。
「もう。わかってるってば」
笑いながら頭を撫でる。
……あれ。
指先に触れる毛並みを見て、少し首を傾げた。
「でも、不思議だったんだよね。初めて会ったのに、何だか話しやすくて」
いつもなら、もう少し緊張するはずだ。
実際、会場ではご挨拶だけでも気を張っていた。
それなのに、あの方とは。
「ルゥの話をしたからかな?」
尋ねると、ルゥは私を見つめた。
当然、答えはない。
「……そうだよね。ルゥに聞いてもわからないか」
額へそっと頬を寄せる。
温かい。
いつもの匂いがする。
安心して息を吐くと、ルゥの尻尾が私の腕へ触れた。
* * *
「それからね、ノアとも二回踊ったの」
撫でていた指先を、私は少し止めた。
二曲目になるとわかっていて、誘われたこと。
私も、もう少し一緒にいたいと思ったこと。
思い返すと、まだ胸が落ち着かない。
「……最初のダンス、ちゃんと迎えに来てくれたんだよ」
ルゥは黙って、こちらを見ている。
「すごく格好よくて。綺麗だって言ってもらえて、嬉しくて」
そこまで話して、顔が熱くなった。
……猫に何を報告しているの、私。
けれどルゥは、急かさなかった。
膝の上で、静かに丸くなっている。
私はその背中へ、もう一度手を置いた。
「でも、ほかの方と踊っているのを見たら、ちょっと寂しかった」
声が、小さくなった。
ノアに好きな人ができたら、応援する。
前には、迷わずそう思っていた。
でも、ただ一曲踊っているのを見ただけで、あんな気持ちになるなんて。
「……自分でも、びっくりしちゃった」
ルゥが顔を上げた。
「ノアには幸せになってほしいのに。誰かと踊っているだけで、寂しくなるなんて」
答えを求めるつもりではなかった。
口にすれば、少しわかるかもしれないと思っただけ。
けれど、声に出したら、かえって胸の中が騒がしくなった。
もし、これが恋だったら。
そこまで考えると、指先が止まる。
恋愛には関わらないと決めた。
ただ恥ずかしいからでも、面倒だからでもない。
ゲームでは、私――セレティアと関わった攻略対象たちが、次々と死んでしまったから。
ノアに、同じことが起きたら。
さっきまで一緒に笑っていた顔が浮かんで、胸が冷えた。
あの笑顔が見られなくなるなんて、嫌だ。
私はそっと息を吸った。
……でも。
そういえば、リリアはまだ、誰とも恋愛をしていない。
ローゼリア様とも仲良くなって、三人でお茶までしている。
……ゲームでは、こんなふうになるんだった?
少なくとも、今の私が知っている二人は、対立なんてしていない。
この世界は、少しずつゲームと違っている。
そう思ったことは、前にもあった。
だったら、ノアたちの未来も――。
「……同じとは、限らないのかな」
小さく呟く。
膝の上で、ルゥが身を起こした。
前足が、私の手へ触れる。
「ルゥ?」
青灰色の目が、じっと私を見ていた。
撫でてほしいのかと思って手を動かすと、今度は額を押しつけてくる。
強くはない。ただ、ここにいると知らせるみたいに。
「……ふふ。難しい顔、してた?」
抱き寄せると、ルゥはおとなしく腕に収まった。
あの青年にも、似たようなことを言われた気がする。
休みに来たはずなのに、難しいことを考えているみたいだって。
「今日は、いっぱいあったね」
ルゥに言いながら、私は自分でも少し笑った。
一晩で、答えは出ない。
違うことがあるからといって、何も起きないとは言い切れない。
それでも、ゲームの結末を思い出すたびに、今のノアから目を逸らしていていいのだろうか。
今夜、隣で笑ってくれた顔まで、怖い記憶で塗りつぶしたくはなかった。
明かりを落とし、寝台へ潜り込む。
ルゥはいつもの場所へ来て、私の腕のそばで丸くなった。
「おやすみ、ルゥ」
目を閉じる前に、そっと頭を撫でる。
「また、あの方に会えるかな」
返事の代わりに、尻尾が指へ触れた。
私は小さく笑う。
「今度は、ちゃんと名前を聞かなくちゃ」
会えたら、何を話そう。
そう考えたところで、大きなあくびが出た。
……まずは寝よう。
明日は、ゆっくり起きるってノアとも話したんだから。
温かな毛並みへ指を添えたまま、私は目を閉じた。
* * *
静かな寝息を聞き、銀灰色の猫が顔を上げた。
淡い光が、その体を包む。
やがて寝台のそばに立った青年は、眠る少女を見下ろした。
「……すぐ、そばにいるんだけどな」
小さな声に、返事はない。
彼女は人の姿をした自分に、また会いたいと言った。
正体を知らないまま、目を見て笑ってくれた。
猫の話から薬草の話へ移るうちに、声まで弾ませていた。
その顔を思い出し、彼の口元が緩む。
もちろん、ノアの話をしていたときの表情も覚えている。
嬉しそうで、少し照れくさそうで。
見慣れたはずの少女が、自分の知らない気持ちに戸惑っていた。
青年は、寝台のそばへ腰を下ろした。
猫の姿では、話を聞くことはできても、言葉を返してやれない。
今夜も、彼女が難しい顔をするたび、手へ額を寄せることしかできなかった。
人の姿なら、もう少し話せるだろうか。
名前を尋ねようとした顔。
また会えるだろうかと、猫の自分に尋ねた声。
「……次は、名前を聞きそびれるなよ」
眠る彼女へ、小さく囁く。
次に会うとき、彼女は何を話すのだろう。
今夜のように、楽しそうに笑ってくれればいい。
青年が身を起こすと、少女の指が寝台の上をわずかに動いた。
いつもの場所を探すような、その動きに目を細める。
再び淡い光が揺れた。
銀灰色の猫は彼女の腕のそばへ戻り、指先へそっと額を寄せた。
明日は、いつもどおりここにいる。
けれど、次に人の姿で会うときのことも、もう楽しみになっていた。




