練習なのに、近すぎませんか!?
夜会の前日。
屋敷の小広間で、私はそっと深呼吸した。
椅子は壁際へ寄せられ、床には物一つ落ちていない。窓からは午後の光が差し込み、少し開いた扉の向こうにはミアが控えている。
準備は万全。
足を引っかける心配もありません!
……問題は、目の前のノアなんですけど。
「そんなに緊張しなくても」
笑いながら手を差し出され、私はその顔を見上げた。
「ノアが落ち着きすぎなの!」
「まだ、何もしてないよ?」
「これからするでしょう!」
言ってから、はっとする。
何を!?
ダンスです!ほかには何もしません!
ノアは一瞬だけ黙り、それから口元を緩めた。
「……そうだね。じゃあ、始めようか」
今の間は、何ですか。
聞けないまま、差し出された手へ自分の手を重ねる。
ノアが一歩近づいた。
肩へ手を添えようとしたところで、腰にもそっと手が回る。
……はい、近い!
知ってました。
ダンスって、そういうものです。
でも、知識として知っているのと、実際にノアが近くにいるのとでは、話が違いませんか!?
「ティア、肩に力が入ってる」
「……入るよ」
「うん。少しずつでいいから」
からかわずに言われて、私は小さく息を吐いた。
まずは、習ったとおりに。
足の位置を確かめて、一歩。
ノアも、私に合わせて動いた。
* * *
最初の数歩は、うまくいった。
たぶん。
少なくとも、足は踏んでいない。
ところが、向きを変えようとしたところで、次の一歩に迷った。
右?
違う、こっち?
考えた瞬間、靴の先がノアの足に触れる。
「あっ、ごめん!」
「大丈夫」
「今、踏んだよね!?」
「少しだけね」
少しだけ、という優しさが痛い!
慌てて足を引くと、今度は体が後ろへ傾いた。
腰を支えていた手に、わずかに力がこもる。
「そんなに離れなくていいよ」
引き止められ、顔を上げた。
すぐ近くに、青い瞳がある。
「足を避けようとして、ティアが転んだら困るから」
「……うん」
その声で、ようやく体の力が抜けた。
ノアは私が立ち直ったのを確かめると、手を離した。
「一度、足だけ確認しようか」
「お願いします……」
隣へ並び、同じ向きになる。
ノアがゆっくり動いてくれるので、私もその足を追った。
一歩、二歩。
向きを変えて、もう一度。
……あ。こうか。
「そう。今ので合ってる」
「わかった!もう一回やってもいい?」
「もちろん」
今度は迷わず動けた。
嬉しくなって振り向くと、ノアも笑っていた。
「できたね」
「うん!これで、ノアの足も守れそう!」
言うと、彼が肩を揺らす。
「そんなに心配しなくても、平気だよ」
「私が気にするの!」
もう一度、手を取る。
さっきより少し近づきやすくなったのは、足の動きがわかったから。
……うん。きっと、それだけです!
* * *
何度か繰り返すうちに、足元を見なくても動けるようになってきた。
ノアの歩幅に合わせる。
向きが変わる前には、手や体の動きでわかる。
一人で全部考えなくても、ついていける。
「……楽しいかも」
思わず呟くと、ノアが私を見た。
「かも?」
「楽しい!」
言い直すと、嬉しそうに目を細める。
「よかった」
その顔を見て、また少し足が危なくなった。
……だから!
急にそんな顔をしないでください!
「ノア、笑わないで」
「え?」
「足のこと、忘れちゃうから」
言ってしまってから、自分の言葉に気づいた。
……今の、何?
ノアの笑顔を見ていると足を忘れるって。
つまり、見とれているみたいじゃない!?
「ち、違うの!つられて笑っちゃうと、数を忘れるから!」
「……うん」
ノアは口元を引き締めた。
けれど、目元は全然隠せていない。
「笑ってるでしょう」
「ごめん」
謝りながら、ますます嬉しそうになる。
もう、絶対わざとだ!
私もおかしくなってしまって、結局、二人で足を止めた。
* * *
「ずいぶん楽しそうですね」
扉の方を見ると、リオンが盆を持ったミアと一緒に立っていた。
「あっ、リオン!」
「少し、休憩なさいませんか?」
飲み物を用意してくれたらしい。
ありがたく椅子へ座ると、思った以上に喉が渇いていた。
「姉様、もう踊れそうですか?」
「うん!ノアのおかげで、少し思い出してきた!」
グラスを受け取りながら答えると、リオンは私の足元を見た。
「では、僕とも一度」
「リオンと?」
「はい。僕も、練習しておきたいので」
私はノアを見る。
彼は少しだけ眉を上げてから、頷いた。
「相手が変わっても踊れるか、確かめてみる?」
「……それ、大事だね!」
立ち上がってリオンの手を取ると、弟は綺麗に礼をした。
「一曲、お相手いただけますか」
「ふふ。喜んで」
同じ踊りなのに、少し違う。
手を置く高さも、進む歩幅も。
リオンは私の様子を見ながら、丁寧に合わせてくれた。
「上手だね、リオン!」
「ありがとうございます。姉様も、お上手ですよ」
にっこりと微笑まれる。
……可愛い。
背は追い越されたけれど、こういう顔をすると、やっぱり可愛い!
一通り踊り終えると、リオンは私の手を取ったままノアへ顔を向けた。
「ノア兄様。姉様なら、もう大丈夫そうですよ」
「うん。見てた」
「明日は、安心してお任せできますね」
……ん?
私が、任される方なの?
ノアは小さく笑った。
「そうだね。でも、最後にもう一度だけ」
差し出された手を見て、私は頷いた。
「うん!今のうちに、ちゃんと覚えておきたい!」
リオンは私の手を離し、楽しそうに二人を見比べた。
「では、僕はお邪魔しないようにしていますね」
……練習だからね!?
その言い方だと、何だか違うものに聞こえます!
* * *
リオンが椅子へ腰を下ろし、ミアが小さなオルゴールのねじを巻く。
穏やかな旋律が流れ始めた。
ノアの手に導かれ、私は一歩踏み出す。
さっきより、自然に動けた。
足元ではなく、ノアを見る余裕もある。
近いけれど、もう最初ほど慌てない。
……慣れるものなんだなぁ。
そう思ったところで、ノアが静かに尋ねた。
「明日、どんなドレスを着るの?」
「それは、まだ内緒」
「内緒?」
「うん。今日のために練習したんだから、ちゃんと綺麗にして行こうと思って」
答えると、ノアの視線が私の顔に留まった。
「……そっか」
「ノアも、いつもより格好よくしてくる?」
「そのつもりだけど」
「じゃあ、見つけられるかな」
冗談めかして言うと、ノアは少し考えるように目を細めた。
「僕が先に、ティアを見つけるよ」
……あ。
思ったより真面目な声だった。
「人がたくさんいるよ?」
「うん」
「私、いつもと髪型も違うかもしれないし」
「それでも」
迷わず返されて、次の言葉が出てこなくなる。
「見つけたら、誘いに行くから」
腰を支える手は、変わらず優しい。
「最初の一曲、取っておいてね」
そのとき、音楽がゆっくりと終わった。
足を止めても、すぐには顔を逸らせなかった。
近くで見るノアの瞳は、こんなに青い。
……まただ。
嬉しくて、胸が跳ねる。
そのあとから、小さな不安が追いかけてくる。
でも、今ここで手を離して逃げたいとは思わなかった。
「……うん。待ってる」
答えると、ノアが笑った。
その顔を見たら、明日がますます楽しみになってしまった。
* * *
ノアたちが部屋を出たあと、私はミアとオルゴールを片づけていた。
「お嬢様、とても綺麗に踊っていらっしゃいましたよ」
「本当?最初は、足を踏んじゃったけど」
「ええ。ですが、最後はお顔を上げて、楽しそうになさっていました」
……見られてた。
そりゃ、見ていたよね。
ずっと、同じお部屋にいたんだもの!
私はオルゴールの蓋を閉じ、そっと指を重ねた。
明日、ノアはほかの令嬢とも踊る。
それは、変わらない。
けれど、私を見つけて誘いに来てくれるとも言った。
最初の一曲を、取っておいてほしいと。
……うん。
それなら、まずはその一曲。
先のことまで、今すぐ答えを出さなくてもいいよね。
「ミア。明日の髪飾りなんだけど」
「はい」
「あの青い宝石のもの、使えるかな?」
ミアが、柔らかく微笑んだ。
「もちろんです。ドレスにも合うよう、綺麗に整えましょう」
「……ありがとう」
窓の外は、まだ明るい。
夜会までは、あと一日。
何度も楽しみにしている自分に気づきながら、私は明日のドレスを確かめに、ミアと部屋を出た。




