その笑顔、私だけのものではありません
約束のお休みの日。
私は応接室の時計を見てから、窓の外へ目を向けた。
……まだ、少し早い。
テーブルには、お茶の用意が整っている。ノアの好きなお菓子も、料理人にお願いしておいた。あとは、来るのを待つだけなのに。
「姉様。先ほどから、何度も時計をご覧になっていますね」
隣のリオンが、楽しそうに言った。
「そ、そんなに見てた?」
「はい」
膝の上のルゥまで、顔を上げる。
……もう。二人して、そんな目で見ないでください!
ノアが我が家へ来るなんて、珍しいことではない。学園が始まる前だって、何度も遊びに来ていた。
ただ、今日は。
――休みの日に、ティアに会いに行ってもいい?
あの言い方を思い出すと、なんだか落ち着かないのだ。
「ノアに、ちゃんとお祝いをしたかったから」
そう答えてルゥの背中を撫でると、リオンは微笑んだ。
「ええ。ノア兄様も、喜ばれると思います」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
思わず顔を上げる。扉が開くより先に、リオンが小さく笑った。
……今のは、仕方ないでしょう!?
* * *
「お待たせ、ティア」
入ってきたノアを見て、私は一瞬、言葉を忘れた。
落ち着いた色の上着に、白いシャツ。制服とは違う襟元が、なんだか新鮮だった。
……あれ。
ノアって、こんなに肩幅があったっけ?
「ティア?」
「あっ、ううん!待ってたよ!」
慌てて立ち上がろうとすると、ルゥが膝の上で尻尾を揺らした。
「ごめんね、ルゥ。少しだけ降りてくれる?」
ソファへ移してから顔を上げると、ノアがこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……いや。今日も似合ってるなと思って」
「今日も?」
ノアの視線が、私の髪へ向く。銀色の髪飾りには、今日も青い宝石が輝いていた。
「ああ、これ?ふふ。お気に入りだもの」
答えると、ノアが嬉しそうに笑った。
……その顔を見たかったから、選んだわけでは。
ない、と思う。
たぶん。
「ノア兄様。どうぞ、お掛けください」
リオンの声に、私ははっとした。
そうでした!
入口で見つめ合っている場合じゃない!
* * *
お茶をいただきながら、改めて優勝のお祝いをした。
ノアはお菓子の皿を見て、少し驚いた顔になる。
「これ、好きなんだ」
「知ってるよ。前にも、よく食べていたでしょう?」
そう答えると、ノアの手が止まった。
「……覚えてたんだ」
「もちろん」
小さい頃から、何度一緒にお茶を飲んだと思っているの。
私が笑うと、ノアも目を細めた。
「ありがとう。今日は、来てよかった」
……まだ、お菓子を出しただけなんですけど!
そんなふうに言われると、こちらまで嬉しくなってしまう。
話しているうちに、ノアが上着から小さな包みを取り出した。
「これ。遅くなって、ごめんね」
「あっ、ハンカチ!」
受け取って開くと、綺麗に畳まれたハンカチが入っていた。
「ありがとう。わざわざ包んでくれたの?」
「借りたものだから」
広げかけた布の端を見て、私は首を傾げる。
……ん?
小さな青い花なんて、刺繍してあったっけ?
「ノア、これ……」
「借りた方は、その下」
重なっていたもう一枚に気づき、手を止めた。
「上のは、お礼。迷ったんだけど、ティアに似合いそうだったから」
白い布の隅に、淡い青色の花が咲いている。指先でそっと撫でると、ノアが私の顔を覗き込んだ。
「……気に入ってくれた?」
「うん! すごく可愛い!」
顔を上げた途端、思っていたより近くに青い瞳があった。
「よかった」
声まで柔らかい。
……待って。
ハンカチのお礼に、ハンカチをいただいて。
それを選んだノアが、こんな顔をしているんですけど。
これは、どういう顔で受け取れば正解ですか!?
「大切に使うね」
ようやく答えると、ノアは満足そうに頷いた。
隣ではリオンが、静かにお茶を飲んでいた。
* * *
二杯目のお茶を注いでもらった頃、リオンがふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ノア兄様。来週の夜会には、いらっしゃるんですか?」
「ああ。父と一緒にね」
私はカップを置いた。
「夜会があるの?」
「うん。父がお世話になっている方のお宅で。今回は、僕も出ることになってる」
そうなんだ。
公爵家の跡取りだもの。学園以外のお付き合いも、たくさんあるんだろう。
「姉様は、招待状をご覧になっていませんか?」
「まだ見ていないと思う。パパには何も言われていないし……」
リオンは頷き、ノアへ視線を戻した。
「お嬢様も、学園に通っていらっしゃるそうですね」
「うん。高等部の一年上だったかな。父から、当日はご挨拶するように言われてる」
令嬢。
その言葉が、少しだけ耳に残った。
「では、ダンスも?」
「うん。先方のお嬢様とは一曲踊るようにと、父から言われてる」
私は手元のカップへ目を落とした。
……ダンス。
綺麗なドレスを着た令嬢へ、ノアが手を差し出す。
その方が笑って手を重ねて、ノアも優しく微笑んで。
「ティア?」
呼ばれて、慌てて顔を上げた。
「えっ?」
「どうかした?」
目の前のノアは、さっきと同じ顔をしていた。私を見て、少し心配そうにしている。
「ううん。何でもないよ。夜会、楽しんできてね」
言ったあとで、なぜか胸のあたりが落ち着かなかった。
楽しく過ごしてほしい。
ノアには、いつだって笑っていてほしい。
本当に、そう思っているのに。
「……ティアも、来られたらよかったね」
ノアが言った。
「私も?」
「うん。一緒に踊れたら、嬉しかったから」
……っ。
さっき浮かんだ光景が、急に変わる。差し出された手の先にいるのが、知らない令嬢ではなく、私になった。
「わ、私、学園の授業以外では、あまり踊っていないよ?」
「じゃあ、夜会の前に一緒に練習する?」
「えっ?」
ノアが、私を見る。
「ティアが来られるなら、最初に僕と踊ってほしいから」
……ノアと、踊る。
考えただけなのに、さっきまでとは違う意味で胸が忙しい。
「……まずは、パパに聞いてみないと」
「うん。来られそうなら、教えてね」
頷くノアの顔を、今度は少しだけ長く見てしまった。
* * *
そのあとも、三人で話は弾んだ。
リオンの授業のこと。
大会で使った剣のこと。
ルゥが私のお菓子へ顔を近づけて、慌てて皿を遠ざけたこと。
楽しい。いつもと同じ、賑やかなお茶の時間だ。
けれど、ノアがカップを持ち上げると、その指を見てしまう。
来週は、その手に誰かが触れるんだ。
そう考えてから、自分に驚いた。
……何を気にしているの、私。
ノアが誰と踊ったって、おかしくない。私だって、夜会へ出れば誰かにお誘いいただくことはあるだろう。
それに、ノアには好きな人がいるかもしれない。
応援するって、前に自分で言ったでしょう?
「ティア、これ」
ノアが、私の前へお菓子の皿を寄せた。
「最後の一つ。好きでしょう?」
「……うん。ありがとう」
昔から、こうしてくれる。
私の好きなものを覚えていて、見つけると取っておいてくれる。
けれど、いつか。
その最後の一つを、私ではない誰かのために残す日も来るのだろうか。
私はお菓子へ伸ばしかけた手を、少しだけ止めた。
「食べない?」
「食べる!」
慌てて受け取ると、ノアが笑った。
その笑顔に、ほっとする。
……今、どうして安心したの?
答えの出ないまま口にしたお菓子は、いつもと同じ味だった。
* * *
ノアが帰ったあと、私は膝の上へ二枚のハンカチを広げた。
見慣れた、自分のもの。
今日いただいた、青い花のもの。
「楽しかったですね、姉様」
リオンに声をかけられ、私は頷いた。
「うん。ノアも、少しゆっくりできたかな」
「ええ。とても嬉しそうでしたよ」
そうなら、よかった。
指先で青い花に触れていると、リオンが私の顔を見た。
「姉様?」
「……ねえ、リオン」
気づけば、口が動いていた。
「来週の夜会って……私も、参加できるのかな」
リオンが、一度だけ瞬きをした。
その顔を見て、私は慌てて言い足す。
「ほ、ほら!ノアが行くって言っていたから、少し気になって!」
弟は何もからかわず、穏やかに頷いた。
「お父様に、伺ってみましょうか」
「……うん」
返事をしてから、膝の上を見る。
私から夜会を気にするなんて、珍しい。
自分でも、わかっていた。
ただ、ノアが誰かへ手を差し出すところを想像すると。
どうしても、胸の奥が、ちくりとするのだ。




