幼馴染でいられるなら、それでよかった
――ノア視点
ティアたちの馬車を見送ってから、俺は生徒会室へ引き返した。
殿下を探している途中で、預かった資料を近くの役員に託していた。届けたことだけ伝えて帰るつもりだったのに、扉を開けた途端、殿下が顔を上げた。
「戻ってきたのか」
「資料をお預けした件で。打ち合わせは、終わったんですか?」
「ああ。今しがたね」
机の上には、確認を終えたらしい書類が積まれていた。ほかの役員は、すでに帰ったようだ。
殿下は手元の紙を揃えながら、何気ない調子で尋ねた。
「セレティア嬢は、無事に帰れたかな」
「はい。リオンと一緒に」
「そうか。それはよかった」
そこで終われば、俺も礼をして帰れた。
けれど、殿下がこちらを見る。その顔を見た瞬間、余計なことを言うつもりだとわかった。
「それで。機嫌は直ったか?」
「……悪くしていません」
「そうだったのか。では、あの顔は見間違いだな」
「どの顔でしょう」
「私の手を見ていたときの顔だよ」
返事が、一拍遅れた。
殿下はそれを見逃さず、楽しそうに口元を緩める。
「わかりやすくなったな、お前も」
「……支えていただいたことには、感謝しています」
「それは本人にも伝えたのか?」
「伝えました」
「なら、構わないだろう」
構わない。
そう言えたら、どれだけ楽だったか。
扉を開けた瞬間の光景が、まだ頭に残っている。
殿下の袖を掴むティアの指。
腰を支える手。
すぐ近くで、こちらを振り向いた顔。
転びかけたと聞いて、まず怪我を心配した。無事だとわかって、安心もした。
それでも、あの距離を見たときの気持ちまでは消えてくれなかった。
「……ずいぶん、考え込むんだな」
殿下の声に、顔を上げる。
「まだ何も申し上げていませんが」
「ああ。顔に書いてあるだけだ」
俺は、小さく息を吐いた。
* * *
「そこまで気になるなら、伝えればいいだろう」
殿下は書類から手を離し、俺へ向き直った。
「セレティア嬢に、お前の気持ちを」
簡単に言ってくれる。
……いや。言えずにいる俺の方が、よほど面倒なのだろう。
「ティアは、俺をそういう相手だと思っていません」
「だから、伝えるんじゃないのか」
「伝えたら、変わるでしょう」
殿下が、黙った。
俺は窓の外へ目を向けた。馬車が去った道は、ここからでは見えない。
「今は、会いに行けば喜んでくれます。隣に座っても、話しかけても、当たり前みたいに受け入れてくれる」
名前を呼べば、笑って振り向く。
何か嬉しいことがあった日は、俺にも聞かせようとしてくれる。俺が疲れていれば気づいて、無理をしないでと言う。
ティアは、いつもそうして俺を気にかけてくれる。
「でも、気持ちを伝えたら……同じようには、できなくなるかもしれない」
俺の気持ちに応えられないからと、会うことまで断られるかもしれない。
何気なく向けてくれていた笑顔を、俺のために控えるようになるかもしれない。ティアなら、俺を傷つけないように考えるだろう。
そうしてできた距離を、俺はきっと、簡単には戻せない。
「……それが、怖いのか」
殿下の声から、からかう響きが消えていた。
俺は少し迷ってから、頷いた。
「はい」
口にすると、情けないほどはっきりした。
剣を握っているときなら、迷ったまま立っているわけにはいかない。けれど、ティアのことになると、踏み出せない理由ばかり増えていく。
「幼馴染なら、そばにいられますから」
ティアが笑ってくれるなら。
困ったとき、俺の名前を呼んでくれるなら。
それで十分だと、自分に言い聞かせてきた。
……今日も、そう思えるはずだった。
* * *
「ただ、セレティア嬢がどう思うかは、本人にしかわからないだろう」
殿下は、静かに言った。
「お前が大切にされているのは、私にもわかるよ。それがどんな気持ちなのかまで、代わりに決めてやることはできないが」
俺は、机の端へ視線を落とした。
わかっている。ティアの気持ちを、俺が決めるべきではない。
それでも、期待して違っていたときのことを考えると、どうしても慎重になる。
「……今日は、少し言いすぎました」
「何を?」
「殿下の近くにいたから、平気ではいられなかったと」
殿下が瞬きをした。それから、ゆっくりと笑う。
「何だ。ちゃんと言っているじゃないか」
「つい、口に出ただけです」
「彼女は?」
「……困っていました」
思い出しただけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
ティアは、いつものように首を傾げなかった。
頬を赤くして、視線を落として。
――そ、そんなふうに言われても。
あの声が、まだ耳に残っている。
「嫌がっていたのか?」
問われて、すぐには答えられなかった。
困らせた。それは確かだ。
けれど、俺を避けようとしたわけではなかった。帰り道も、隣を歩いてくれた。
時折こちらを見上げかけては、何か言う前に顔を戻していた。
「……わかりません」
「そうか」
殿下は、それ以上答えを求めなかった。
俺も口を閉じる。
本当は、もう少し聞いていたかった。
あの反応は、どういう意味だと思うか。
少しくらい、期待してもいいのか。
……そんなことまで、殿下に尋ねてどうする。
「ノア」
顔を上げると、殿下が少しだけ悪戯っぽく笑っていた。
「剣術大会で優勝した男が、なかなか手強い相手に苦戦しているな」
「……剣でどうにかなるなら、苦労していません」
「ははっ。それもそうだ」
笑い声を聞きながら、俺もわずかに口元を緩めた。
* * *
生徒会室を出る頃には、廊下の窓が夕日に染まっていた。
一人で歩きながら、さっきティアと立ち止まった場所へ目を向ける。
もう、誰もいない。
それなのに、髪を直してやったときの顔が浮かんだ。
近づく指先を見て、ぴたりと動きを止めたティア。
小さな声の、ありがとう。
……あんな顔をされたら、期待する。
俺のことを、少しは意識してくれたのではないかと。
そう思った次の瞬間には、自分に都合よく受け取っているだけかもしれないと考える。
昔から、よく知っているはずなのに。最近は、わからない顔が増えた。
校舎を出ようとしたところで、上着の内ポケットへ手を入れた。
指先に触れたのは、洗ってもらったティアのハンカチだった。
返そうと思って持ってきたのに、今日は結局、渡しそびれてしまった。
――洗うのに、そんなに時間がかかるものじゃないと思うけど。
思い出して、一人で笑ってしまう。
本当に、そのとおりだった。
ハンカチを返すだけなら、休みの日まで待つ必要なんてなかった。
ただ、学園の授業の合間ではなく、ゆっくり会いたかった。ティアが何を話してくれるのか、隣で聞いていたかった。
それだけのことを言うのに、俺はずいぶん遠回りをした。
今度の休みには、会える。
リオンも一緒だろう。きっと、猫もいる。
それでもティアは、俺が行けば嬉しそうに迎えてくれるはずだ。その光景を思い浮かべると、胸の奥が温かくなる。
――ノアの声がしたら、もっと安心したよ。
今日、何度目かわからないほど、その言葉を思い返した。
もっと。
たったそれだけの言葉で、あれほど苦しかった気持ちがほどけてしまった。
ティアは、きっと知らない。
俺がどれほど嬉しくて、あのあとも平静を装うのに苦労したか。
「……十分なわけ、ないだろ」
誰もいない道で、小さく呟く。
幼馴染でいられるなら、それでいい。
そう思っていたはずなのに。
次に会うときも、きっと俺は、ティアを笑顔にしたいと思う。
そのうえで、今日みたいに少しだけ、俺を見て照れてくれたらいいと願ってしまう。
俺はハンカチの入ったポケットを軽く押さえ、待っている馬車へ歩き出した。
休みの日が、待ち遠しかった。




