幼馴染は、笑顔だけでは済ませない
「転びそうだったから、支えていたんだが?」
ユリウス殿下の言葉に、私は何度も頷いた。
「そうなんです! 椅子に足を引っかけてしまって……」
ノアの視線が、私へ戻る。
「ティア。怪我は?」
「ううん。殿下が支えてくださったから、大丈夫だよ」
答えると、ノアは私の足元を確かめた。それから、ようやく小さく息を吐く。
「……よかった」
声が、少し柔らかくなった。
……うん。びっくりさせちゃったんだよね。
私だって、扉を開けたら誰かが転びかけていたら、驚くもの。
そう納得したところで、殿下が口を開いた。
「私からも礼を言うよ。助かった」
「殿下が戻られないので、探していたんです」
「予定どおりだな」
「……ご自分で閉じ込められる予定は、立てないでいただけますか」
……ノア!?
王太子殿下に、またそんなことを!
けれど、殿下は楽しそうに笑っただけだった。
「扉には修理が必要だ。手配してもらえるかな」
「はい。部屋を使わないよう、先に伝えておきます」
ノアが廊下へ出て、こちらを振り返る。
「ティアも、出ておいで」
差し出された手を見て、私は一瞬迷った。
……手。
また、噂にならないかな?
ノアは私の視線に気づくと、少しだけ眉を下げた。
「段差があるから。今度は、転ばないようにね」
「……はい」
おっしゃるとおりです。
その手を借り、敷居を越える。ノアは私が廊下へ出るのを確かめてから、手を離した。
さっきまでの近さとは違うのに、今度はその指先が妙に気になった。
* * *
ユリウス殿下は資料を持って部屋を出ると、扉が閉まらないよう椅子を置いた。
「記録の確認は済んだ。先生には、確かに受け取ったと伝えてくれるかな」
「はい」
私は姿勢を正し、改めて礼をした。
「先ほどは、ありがとうございました」
「怪我がなくて何よりだ」
その声に、また資料室での距離を思い出してしまう。
……いけない。
今は、普通にお礼を言うだけ!
顔を上げると、殿下の視線が私からノアへ移った。
「では、セレティア嬢を頼むよ」
「……言われなくても」
ノアの返事が、やけに早い。
殿下の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「そうか。君が迎えに来てくれてよかった」
「殿下を探しに来たんですが」
「もちろん。わかっているよ」
……あれ?
わかっているって言いながら、全然違うことを考えていそうなお顔なんですけど。
殿下は書類を抱え直し、私へ頷いた。
「また話そう。薬草の話も、なかなか面白かった」
「は、はい!」
そのまま生徒会室へ向かっていく。
残された私の隣で、ノアが静かに息を吐いた。
「……行こうか」
「うん」
* * *
二人で廊下を歩き出す。
窓からは、夕方の光が差し込んでいた。資料室にいた時間は長くなかったはずなのに、ずいぶんいろいろあった気がする。
……閉じ込められて、転びかけて、殿下に支えていただいて。
うん。
今日は、もう十分です!
「ノア、助けに来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
「生徒会の打ち合わせがあるって、殿下がおっしゃっていたよ。ノアも参加するんじゃないの?」
「今日は先生から資料を届けるだけ。殿下がいらっしゃらないと聞いて、隣を確認したんだ」
なるほど。
だから、ちょうど見つけてくれたんだね。
私はほっとして笑った。
「ノアが来てくれて、本当によかった」
隣の足音が、少しだけ遅くなった。
顔を向けると、ノアが私を見ていた。
「……ティアは?」
「ん?」
「怖くなかった?」
私は少し考えた。
扉が開かなかったときは、びっくりした。でも、殿下は落ち着いていたし、誰かが来ると説明してくださったから。
「大丈夫だったよ。殿下が一緒だったもの」
そう答えると、ノアが黙った。
……ん?
今、何か間違えた?
「あのね、すぐ誰かが探しに来るって教えてくださって。それで、安心できたの」
「……うん。殿下は、そういう方だよ」
ノアは前へ視線を戻した。
その顔が少し寂しそうに見えて、私は足を緩める。
「ノア?」
呼ぶと、彼も立ち止まった。人通りの少ない、窓際だった。
「……ごめん。殿下が一緒でよかったのは、本当だよね」
「うん。でも……」
何と言えばいいのだろう。
ユリウス殿下は頼もしかった。近くで支えられたときは、心臓まで大騒ぎした。
けれど、扉の向こうからノアの声が聞こえたとき。
「ノアの声がしたら、もっと安心したよ」
言うと、ノアの目が私へ戻った。
「……もっと?」
「うん。ああ、もう大丈夫だって思ったの」
いつも知っている声だったから。
顔を見る前から、ほっとしたのだ。
ノアは、しばらく何も言わなかった。それから、手を伸ばす。
「ティア。少し、こっちを向いて」
「え?」
言われるまま向き直ると、ノアの指先が私の頬の横へ近づいた。
……っ。
触れたのは、髪だった。
肩の前へ流れた一房を、そっと後ろへ戻される。
「……乱れてたから」
ノアの手が離れる。
たったそれだけなのに、私は返事を忘れていた。
……ちょっと待って。
今日は、近い人が多すぎませんか!?
「ありがとう……」
ようやく言うと、ノアは私を見たまま、小さく笑った。
「今の言葉、覚えておくね」
「今の?」
「僕の声で、安心したって」
……あ。
そうやって改めて言われると、なんだか恥ずかしい。
「だ、だって。小さい頃から知っているし」
「うん」
「困ったとき、いつも助けてくれるでしょう?」
「……うん」
ノアは否定しなかった。
ただ、私の顔を見て、少しずつ表情を柔らかくしていく。それを見ていると、私まで落ち着かなくなった。
「でも、ティア」
「なあに?」
ノアが少しだけ身を屈めた。目の高さが近くなる。
「……さっきは、少し困った」
「扉が開かなかったから?」
「それもあるけど」
ノアは一度言葉を切った。
「君が、殿下のすぐ近くにいたから」
私は瞬きをした。
資料室の中。殿下の袖を掴んで、腰を支えていただいていた自分。
思い出した途端、頬が熱くなる。
「そ、それは、転びそうだったからで……!」
「わかってる。助けてくださったんだよね」
ノアは穏やかに頷いた。
「だから、殿下には感謝してる」
そこで、口元だけが少し困ったように緩む。
「……でも、平気な顔は、できなかった」
返す言葉が、見つからなかった。
いつものノアなら、何でもないように微笑んでくれる。私が慌てても、落ち着いて受け止めてくれる。
そのノアが、今は少しだけ困っている。
……どうして。
聞こうとしたのに、まっすぐな青い瞳を見たら、声が出なくなった。
殿下の近くにいたから。
それが、平気ではなかったから。
言葉を頭の中で繰り返すほど、顔が熱くなる。
「……そ、そんなふうに言われても」
何と返せばいいのか、わからない。
ノアは少しだけ目を見開いて、それから困ったように笑った。
「うん。ごめん。困らせたかったわけじゃないんだ」
私は鞄の持ち手を握り直した。
謝ってほしいわけじゃない。
ただ、いつものように笑って返すことができなかった。
……もう。
そんな顔で言うから、変に意識しちゃうでしょう。
遠くで、教室の扉が閉まる音がした。
ノアがゆっくり身を起こす。少しだけ距離が戻って、ようやく息がつけた気がした。
「帰ろうか。リオン、待ってるでしょう?」
「あっ、そうだった!」
慌てて頷くと、彼はいつもの歩調で隣へ並んだ。
手は、繋いでいない。
それなのに、さっき髪へ触れた指先のことが、なかなか頭から離れなかった。
……殿下に支えられたときも、ドキドキした。
でも、ノアにあんな顔をされるのは。
もっと、返事に困る。
私は隣を見上げかけて、やめた。
今、目が合ったら、また何も言えなくなりそうだったから。




