勝ったら、君に会いにいく
準決勝でも、ノアは勝った。
最後の一撃が決まった瞬間、私は立ち上がりかけて、慌てて座り直した。
……落ち着いて、私!
応援する側が、先に飛び出してどうするの!?
「姉様。拍手は、座ったままでもできますよ」
「……わかってるよ」
隣で微笑むリオンに、小声で返す。
でも、嬉しいものは嬉しい。これで、次は決勝だ。
試合場では、ノアと対戦相手が礼を交わしていた。
審判を務めるアルヴィン様が二人へ短く声をかける。ノアは真剣な顔で頷いてから、観客席へ目を向けた。
私は両手で、大きく拍手を送った。
ノアが、ふっと笑う。それから通路の方を示して、小さく手を上げた。
……私を呼んでる?
「行ってらしては?」
ローゼリア様の声に振り向くと、二人ともこちらを見ていた。
「でも、休む時間ですし……」
「少し、お話ししたいのかもしれませんね」
リリアが微笑む。
私はもう一度ノアを見てから、席を立った。
* * *
ノアは、試合場の脇の長椅子に座っていた。
防具の留め具を緩め、ゆっくり息を整えている。
「ノア。決勝進出、おめでとう!」
顔を上げた彼が、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、ティア」
「疲れてるよね。少しだけ、お邪魔してもいい?」
「うん。隣、どうぞ」
腰を下ろすと、額に浮かぶ汗が見えた。
私は鞄から、予備のハンカチを取り出す。
「これ、よかったら使って。まだ使っていないものだから」
ノアの視線が、私の手へ落ちる。
「……借りてもいい?」
「もちろん」
受け取ったハンカチで汗を押さえ、ノアが小さく息をついた。
会場からは、決勝の準備をする声が聞こえてくる。
「次の方も、強いんだよね」
「うん。簡単には勝たせてもらえないと思う」
私は膝の上で指を重ねた。
勝ってほしい。でも、怪我はしてほしくない。
少し迷ってから、ノアを見た。
「無理はしないでね。でも、いっぱい応援するから」
ノアは頷いた。それから、手の中のハンカチへ目を落とす。
「勝ったら、ティアのところへ行ってもいい?」
「……うん」
頷いてから、私は付け足した。
「でも、勝たなくても来てね」
ノアが、顔を上げる。
「頑張ったノアに、お疲れさまって言いたいもの」
彼は私を見つめていた。やがて、口元がゆっくりと緩む。
「……じゃあ、終わったら」
「うん。待ってるね」
* * *
ノアを見送って観客席へ戻る途中、リオンたちと合流した。
すぐそばには、試合の確認を終えたアルヴィン様もいた。
「アルヴィン様。お久しぶりです」
リオンが丁寧に礼をする。
「リオン様も、お元気そうで」
「はい。今日は、お会いできて嬉しいです」
「私もです。お二人とも、学園生活を楽しんでいらっしゃるようですね」
私とリオンを見比べ、アルヴィン様が微笑んだ。
……ふふ。こうして三人でお話ししていると、屋敷で剣を教わっていた頃を思い出すなぁ。
「決勝も、アルヴィン様が審判を?」
「ええ。その予定です」
私は試合場へ目を向けた。
あそこに、ノアが立つ。そして師匠が、すぐそばで見ていてくれる。
「……よろしくお願いいたします」
思わず頭を下げると、アルヴィン様は静かに頷いた。
「しっかり、見届けます」
その落ち着いた声に、少しだけ肩の力が抜けた。
* * *
決勝の開始が告げられた。
中央で、ノアと対戦相手が向かい合う。アルヴィン様が二人の準備を確認し、試合場の端へ下がった。
「始め!」
二人が動く。
最初の打ち合いで、観客席の声が止まった。
ノアが受け、相手が離れる。追いかけた剣を、今度は相手が弾いた。
……速い。さっきまでの試合より、ずっと。
どちらかが踏み込むたび、膝の上で手を握りそうになる。私はそっと指を開いた。
ちゃんと見よう。最後まで。
二人の間を、アルヴィン様の視線が追っている。
剣が重なり、離れた。
ノアが前へ出ると、相手は横へ動く。すぐに一撃が返り、ノアの剣がそれを受け止めた。
会場から、息を呑む音がする。
それでも、ノアは相手から目を逸らさなかった。
私は、さっきの声を思い出す。
――終わったら。
……うん。ここで、待ってる。
次の瞬間、相手が大きく踏み込んだ。
ノアが半歩、斜めに体を引く。振り下ろされた剣が、その前を通った。
すぐに、ノアの足が前へ出る。
返された一撃が、相手の胴を捉えた。
「そこまで!」
アルヴィン様の声が響いた。
静まり返った会場で、二人の剣が下がる。
「勝者、ノア・ヴォルフィード!」
一瞬遅れて、歓声が弾けた。
「……勝った!」
今度は、立ち上がった。
リリアも、ローゼリア様も拍手をしている。私も何度も手を叩いた。
ノアが相手と礼を交わす。
アルヴィン様は両者へ言葉をかけたあと、ノアの肩を軽く叩いた。その表情が、少しだけ和らいでいる。
顔を上げたノアが、観客席を探した。
目が合う。
私は笑って、大きく頷いた。
……優勝、おめでとう。
早く、直接言いたいな。
* * *
「姉様。通路へ出ましょうか」
リオンに声をかけられ、私は頷いた。
人の流れに気をつけながら階段を下りる。試合場へ続く通路の手前まで来たところで、向こうからノアが出てきた。
剣は係の人に預け、防具も外している。
私を見つけた途端、その足が速くなった。
私も、つられて歩み寄る。
目の前で止まったノアは、まだ息を弾ませていた。
「……ティア」
「優勝、おめでとう!」
ようやく言えた言葉に、ノアが笑う。
「うん」
それから、張り詰めていたものがほどけるように、少し肩を落とした。
「……来たよ」
「うん。待ってた」
答えたところで、頬に細い傷があることに気づいた。
「……ノア、ここ」
「ああ。防具を外すとき、手袋の縁で擦ったみたい」
ノアは頬へ触れかけ、少しだけ顔をしかめた。
血はほとんど出ていない。けれど、赤くなった細い線が気になった。
「痛くない?」
「少しだけ。あとで診てもらうよ」
そう言って、また笑う。
私はその頬へ、そっと手を伸ばした。
「ティア?」
近くで、青い瞳が瞬く。
指先を傷のそばへ添え、ほんの少しだけ力を流した。手の陰で、細い傷が閉じていく。
これくらいなら、もう迷わず治せる。
魔力を止めるまで、ほんの一呼吸だった。
ノアが、息を止めたように私を見る。
私は少し背伸びをして、小さく囁いた。
「……内緒だよ」
誰かに見られても、頬に触れただけに見える。そう思ってしまった。
けれどノアは、笑わなかった。
私の手に自分の手を重ね、頬からそっと下ろす。そのまま、指先を包み込んだ。
「……ありがとう。でも、ここでは駄目だよ」
誰にも聞こえないくらいの、低い声だった。
「ほんの少しだったから……」
言いかけて、口を閉じる。
ノアが、まっすぐ私を見ていた。
「君に何かあったら、僕が困るんだけど」
……っ。
いつもの甘い笑顔じゃない。
私の返事を待つ瞳を見て、ようやく自分が軽く考えていたことに気づいた。
「……ごめんね」
小さく答えると、ノアはゆっくり息を吐いた。
「うん。次は、気をつけて」
包まれた手は、そのままだった。
私は少しだけ視線を落とす。
さっきまで、剣を握っていた手。あんなに強い相手と戦っていたのに、私の指に触れる力は優しい。
「……でも、痛くなくなった?」
どうしても気になって尋ねると、ノアが一瞬黙った。
それから、困ったように笑う。
「うん。もう、痛くない」
よかった。
ほっとすると、ノアの指がわずかに動いた。
「だから、そんなに嬉しそうにしないで」
「えっ?」
「……注意しにくくなる」
その声に、今度こそ顔が熱くなった。
……だって。
ノアが痛くないなら、嬉しいに決まってるでしょう。
「ノア兄様」
リオンの声に、はっとする。
「表彰式のご案内が、始まっていますよ」
会場の方から、係の人が出場者を呼んでいた。
ノアは一度そちらを見て、私の手をゆっくり離した。
「……また、あとで」
「うん」
彼が会場へ戻っていくと、リオンが私の隣へ寄った。
「姉様。次は、お一人で判断なさらないでくださいね」
声は小さく、表情もいつもより真剣だった。
……気づいてたんだ。
「……はい」
頷くと、リオンはそれ以上言わず、会場へ目を向けた。
その先では、アルヴィン様がノアを迎えていた。二人で表彰式の場所へ向かっていく。
私は、空いた手をそっと握った。
傷が治ってよかった。
優勝できて、本当によかった。
でも、今いちばん頭から離れないのは、少し低くなったノアの声だった。
――君に何かあったら、僕が困るんだけど。
……もう。
頬に触れたのは私なのに、どうして私の方が落ち着かなくなってるの?




