今夜は、君に甘えたい
「……ただいまぁ」
部屋へ戻るなり、私は小さく息をついた。
夕食と湯浴みを終えたら、急に眠気がやってきた。学園の授業に、アシェル様との練習。楽しかったけれど、思っていたより疲れていたらしい。
……今日は、よく頑張った!
あとはノートを少し見直して、それから――。
「にゃあ」
寝台の上から声がした。
顔を上げると、銀灰色の猫が、こちらをじっと見ている。
「ルゥ!」
名前を呼ぶと、ルゥは寝台から軽やかに降りた。そのまま私の足元まで来て、すり、と体を寄せる。
……ああ。可愛い。今日も、うちの猫が可愛すぎる。
「待っててくれたの?」
しゃがんで手を伸ばすと、ルゥが指先へ鼻を寄せた。いつもなら、そのまま頭を撫でるところなのに。
今日は、手のひらへ頬を押しつけてくる。
「……ふふ。どうしたの?」
もう片方の頬まで、ゆっくりと擦りつける。
……ちょっと待って。その甘え方、反則じゃない!?
両手でそっと抱き上げると、ルゥは抵抗せず、私の腕に収まった。
「私も、ルゥに会いたかったよ」
額を寄せると、柔らかな毛が頬に触れた。それだけで、肩に残っていた力が抜けていく。
* * *
長椅子に腰を下ろすと、ルゥは当然のように私の膝で丸くなった。
「今日ね、学園でアシェル様の授業を受けたの」
背中を撫でながら話しかける。
「いつもと違う場所だから、少し緊張しちゃった。でも、道具も授業も同じで、ほっとしたよ」
ルゥの耳が、こちらへ向いた。
「力の使い方も、前よりよくなってるって」
思い出すと、自然に頬が緩む。
「……ふふ。嬉しかったなぁ」
膝の上で、尻尾の先がゆっくり動いた。
「それからね――」
言いかけて、少しだけ口をつぐむ。
制服姿だと、印象が違う。
よく似合っている。
アシェル様の声が、ふと蘇った。
「……制服も、褒めていただいたの」
ルゥが顔を上げた。
「いつも授業では魔法のお話ばかりだから、ちょっとびっくりしたけど」
私は自分の頬へ手を当てた。
……もう、今は制服も着ていないのに。
思い出すだけで照れるなんて、どういうこと!?
「にゃ」
短い声とともに、前足が私の手へ乗った。
「あっ、ごめん。撫でるの、止まってたね」
手を戻すと、ルゥは私を見上げたまま、前足を下ろした。
……今日は、ずいぶん構ってほしいんだね?
「大丈夫。もう、よそ見しないよ」
そう言って笑うと、ルゥは満足そうに目を細めた。
* * *
しばらく背中を撫でているうちに、私は長椅子の背へ体を預けていた。
部屋は静かで、膝の上は温かい。ルゥの喉が鳴る音を聞いていると、まぶたまで重くなってくる。
……まずい。ここで寝たら、ミアに心配されちゃう。
ノートも、まだ机の上に出したままだし。
そう思ったけれど、膝の上のルゥを見下ろすと、もう少し座っていたくなった。
……うん。片づけるのは、あとで。
今は、ちょっとだけ休憩!
今日は学園でも授業でも、ちゃんとしていたかった。
秘密を漏らさないように。
練習も、前より上手にできるように。
楽しい一日だったけれど、知らないうちに気を張っていたのかもしれない。
「……ねえ、ルゥ」
柔らかな耳の後ろへ、そっと指を滑らせる。
「今日は、私が甘えてもいい?」
ルゥが顔を上げた。
猫に何を聞いているんだろう。そう思ったのに、青みがかった灰色の瞳を見ていると、つい続けてしまった。
「少しだけ。こうして、一緒にいてほしいな」
ルゥは私を見つめた。
それから身を起こし、私の胸へ前足をかける。
「あ……」
顔を寄せてきた額が、私の顎の下へ触れた。
まるで、いいよ、と言ってくれたみたいで。
私はそっと、その体を抱き寄せた。
「……ありがとう」
温かい。柔らかくて、慣れた匂いがする。
……ああ。今日は、これが欲しかったのかもしれない。
何かを上手に話さなくても、立派に振る舞わなくてもいい。ただ抱きしめているだけで、安心できる時間。
「……ふふ。ルゥの前だと、気を張らなくていいね」
耳元で、小さく声がした。
「……にゃあ」
「わかってる、ってお返事?」
思わず笑って頬を寄せると、ルゥも私の肩へ顔を埋めた。
……ねえ。本当に、言葉がわかってたりしない?
でも、今は答えなんてなくてもよかった。
私は目を閉じ、もう少しだけ、その温かさに甘えることにした。
* * *
結局、ノートを片づけたのは、それから少しあとだった。
寝台へ入る頃には、眠気で頭がふわふわしていた。
掛け布団を引き上げると、ルゥが枕元へやってくる。
「……今日は、ここにいてね」
私が手を伸ばすと、そのすぐそばに丸くなった。
「おやすみ、ルゥ」
額をひと撫でして、目を閉じる。
すぐ近くで、小さく喉の鳴る音がした。
* * *
穏やかな寝息が、部屋に満ちていた。
銀灰色の猫は、眠るセレティアを見つめていた。
やがて、その体を淡い光が包む。
寝台の傍らに立った青年は、彼女の顔へ目を落とした。
「……甘えてもいいか、だって?」
小さく呟き、目を細める。
眠る彼女の手が、枕元へ伸びていた。先ほどまで猫の背に触れていた指が、何かを探すように動く。
青年は、その手のそばへ指を差し出した。
セレティアの指先が触れ、緩く握る。
「……ここにいる」
彼は、握られた指を動かさずにいた。
昼間の彼女が、誰と過ごしていても。
今、この手が探している温もりは、自分のものだ。
青年の口元が、わずかに緩む。
「……今夜は、俺に甘えていればいい」
返事は、穏やかな寝息だけ。
しばらくして、彼はそっと指を抜き、猫の姿へ戻った。
彼女の手の下へ潜り込むと、眠ったままの指が、柔らかな毛並みに触れる。
今度は、その手が何かを探すこともなかった。
銀灰色の猫は目を閉じ、彼女のそばで静かに喉を鳴らした。




