その手を離した、そのあとで
ノアと手を繋いだまま、食堂へ向かう。
こうして並んで歩いていると、小さい頃に戻ったみたいだ。懐かしくて、つい頬が緩んでしまう。
「ティア」
「ん?」
「今日は、ずいぶんご機嫌だね」
「うん!だって、ノアといっぱいお話しできたから!」
そう答えると、ノアが一瞬だけ黙った。こちらを見る瞳が、ふっと柔らかくなる。
「……そっか」
「ノアは?」
「僕も、嬉しいよ」
ふわりと微笑まれて、なぜか少しだけ胸が跳ねた。
……あれ?今日のノア、いつもより甘い気がする。
いや、最近はこういうことも多いんだけど。それにしたって、なんだか調子が狂うなぁ。
そんなことを考えているうちに、食堂の入り口が見えてきた。行き交う生徒たちに気づき、ふと繋いだ手へ視線を落とす。
……あっ。そういえば、ここは学園だった!
しかも、私たちはもう子どもじゃない。幼馴染だからって、手を繋いだまま食堂に入るのは、さすがに目立つよね!?
「ノア、そろそろ手を離そうか?」
「……どうして?」
「だって、みんなに見られちゃうでしょう?」
少し声を落として言うと、ノアは目を細めた。
「僕は、別に構わないけど」
「でも、ノアは人気者だもの。変な噂になってしまったら……」
ノアがふっと笑う。
「君は、自分のことは心配しないんだね」
「私?」
……ん?今はノアの話をしているんだけど。
首を傾げる私を見て、ノアは繋いでいた手に視線を落とした。それからゆっくりと指をほどき、そっと手を離す。
「……わかった。今日はここまでにしておくよ」
……今日は?
ちょっと気になる言い方だったけれど、ひとまず目立たずに済みそうだ。
「ありがとう、ノア」
ノアが優しく微笑む。その隣を歩きながら、私は空いた手を軽く握った。
さっきまで包まれていた温かさが、まだ残っている気がする。手を離そうと言ったのは私なのに、なんだか少し落ち着かなかった。
そのとき、入り口の方から声が聞こえてきた。
「今の、見た?」
「ええ……ノア様とセレティア様よね?」
「手を繋いでいらしたわ……」
思わず顔を上げると、何人かの生徒がこちらを見ていた。
……遅かった!
もう、しっかり見られてるーーー!!
「幼馴染だって聞いていたけど……」
「でも、あんなふうに……」
ひそひそと交わされる声に、頬が熱くなる。しかも、少し離れたところからは、別の声まで聞こえてきた。
「セレティア様、今日もお綺麗だな……」
「ノア様が羨ましい……」
……えっ!?私の話まで?
ノアが羨ましいって、どうしてそうなるの!?
「ティア、大丈夫?」
「ええ。少し驚いただけ」
できるだけ落ち着いて答えたつもりだったけれど、ノアには伝わってしまったらしい。
私の前に半歩出て、さりげなく周囲の視線を遮ってくれる。そのおかげで、ようやく少し息がつけた。
「気にしなくていいよ」
穏やかな声に、顔を上げる。
こういうところ、ノアは昔から優しい。私が困ると、いつも気づいてくれるのだ。
「……ありがとう」
今度は少し小さな声でお礼を言うと、ノアも微笑んだ。
「セレティア様?」
聞き慣れた声に振り向けば、食堂の入り口にリリアとローゼリア様が立っていた。リリアは目を丸くしていて、ローゼリア様は口元に手を添えている。
「リリアさん、ローゼリア様。お待たせしてしまって、ごめんなさい」
「い、いえ。まだ四人で座れる席が見つからなくて……。それより、今……ノア様と……?」
リリアの視線が、私の手元へ落ちた。
……二人にもしっかり見られてた!
うう。手を離すの、もう少し早くすればよかった……!
「昔から仲がいいので、つい……」
「……つい、ですか!?」
慌てて説明したのに、リリアはますます驚いた顔になってしまった。
「ふふ。ノア様も、なかなか大胆でいらっしゃいますのね」
ローゼリア様が、楽しそうに笑う。
……大胆?
やっぱり、手を繋ぐのはそんなに大胆なことだったの?
小さい頃は当たり前だったのに。
うーん。貴族の男女って、難しい!
「……ローゼリア嬢」
「わたくし、何かおかしなことを申し上げました?」
少し困った顔のノアに、ローゼリア様は上品に微笑んだ。
……あれ?このやり取り、さっきのユリウス殿下とちょっと似ている気がする。
「……いえ」
ノアが小さく息をつくと、リリアまでくすっと笑った。
……もう!私だけ、何の話かわかってないんですけど!
首を傾げながら、三人と一緒に食堂へ入る。
食堂には、昼食を楽しむ生徒たちの声が響いていた。けれど、私たちが通ると、あちこちから視線が集まる。
「でも、婚約のお話なんて聞いていないわ」
「幼馴染だそうよ」
……婚約!?
また、そのお話になるの!?手を繋いだだけで、そこまで話が飛ぶのーーー!?
思わず隣を見上げたけれど、ノアはいつもと変わらない顔をしていた。
……ノア!どうしてそんなに落ち着いてるの!?
私たちの婚約のお話なんですけど!
「ティア、こっち。席が空いたよ」
「あっ、うん」
ノアが示した先では、窓際の席にいた生徒たちが、ちょうど立ち上がったところだった。
案内されたのは、四人掛けの席だった。明るい日差しが差し込んでいて、外の庭もよく見える。
「素敵な席ね」
私が腰を下ろすと、ノアが自然に隣へ座った。向かいにはリリアとローゼリア様が座る。
ようやく落ち着けた気がして、ほっと息をついた。
「ティア、何を食べる?」
「今日はおすすめのランチにしようかな」
「じゃあ、僕もそれにしよう」
昔から、ノアとはこうして一緒に食事をしてきた。周りに注目されていても、隣にいてくれると安心する。
「……仲がよろしいんですね」
リリアが、ぽつりと呟いた。
「ええ。ノアとは小さい頃から、よく一緒に過ごしていたの」
そう答えると、ノアがわずかに眉を下げた。
……あれ?何か変なこと言った?
「……そうだね。昔からずっと」
ノアは私を見たまま、ゆっくりと言った。その眼差しがあまりに優しくて、すぐには目を逸らせなくなる。
近くで見ると、ノアって本当に綺麗な顔をしている。
そんなこと、前から知っていたはずなのに。
「……ティア?」
「えっ?」
名前を呼ばれて、はっとする。慌てて視線を手元へ戻すと、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「どうしたの?」
「何でもないよ。ちょっと考え事をしていただけ」
そう答えながら、私は膝の上で手を握った。
……危ない、危ない。
本人を前に、何を見とれてるの、私!
「ふふ。今日は楽しい昼食になりそうですわね」
ローゼリア様の声に顔を上げると、リリアも嬉しそうに頷いていた。
「本当に。ご一緒できて嬉しいです」
「私も。皆さんとお話しできるのを楽しみにしていたの」
ようやくいつもの調子で笑えたのに、隣から視線を感じて振り向けば、ノアが頬杖をついて私を見ていた。
「……なあに?」
「やっぱり、隣がいいなと思って」
「隣?」
「うん。ティアの」
そう言って、ノアが柔らかく微笑む。
たったそれだけの言葉なのに、胸がきゅっとした。
「……いつも隣に座ってるでしょう?」
「そうだね。だから、今日もここがよかった」
当たり前のことみたいに言うから、余計に困ってしまう。私は何と返せばいいか分からず、手元へ視線を落とした。
隣に座っているだけなのに、さっきより近く感じる。
……私も、ノアの隣がよかった。
でも、今それを口にしたら、顔まで熱くなってしまいそうだった。
そんな私たちの様子を、周囲の生徒たちがちらちらと見ていたことには、気づかなかった。
そして、その日の午後。
学園のあちこちで、ある噂が囁かれ始める。
――アストレイア侯爵令嬢と、公爵家のノア様が、手を繋いで歩いていたらしい、と。
もちろん、その噂がどれほど広がることになるのか、このときの私は知る由もなかった。




