前世の記憶、思い出しました
「お姉様は、僕のことが嫌いなの?」
「……え?」
一階へ降りようと部屋を出たところで、私はリオンに呼び止められた。
侯爵家の屋敷はとても広い。私の部屋がある二階から一階へ続く階段も、子どもの私には少し大きく感じるほど、ゆったりとした造りになっている。
磨かれた木の手すりに、大きな窓から差し込む午後の光。いつもなら何も考えずに通り過ぎる場所だった。
振り返ると、そこには血の繋がらない三歳年下の弟――リオンが立っていた。まだ九歳。少し長めの髪を揺らしながら、大きな瞳で不安そうに私を見つめている。
「どうして……そんなこと言うの?」
「だって……」
リオンは、ぎゅっと服の裾を握った。
「僕が魔法を使えるから……」
「……」
私は何も言えなかった。
リオンはこの家に来てから、何度も褒められていた。魔法の才能がすごい。将来が楽しみだ。なんて優秀な子なんだろう。
そんな言葉を聞くたびに、胸の奥がざわざわした。
私は侯爵家の娘なのに、魔法が苦手。それなのに、血の繋がらない弟のほうがずっと才能がある。
そんな自分が、嫌だった。
「……だから、何なの?」
「お姉様……?」
「私は別に、リオンが魔法を使えることなんて……」
言いかけて、言葉が止まる。
本当は羨ましかった。悔しかった。でも、そんなこと認めたくなかった。
「……お姉様、最近ずっと怒ってる」
「……っ」
「僕、何か悪いことした?」
「してないよ!」
思わず声が大きくなった。
リオンがびくっと肩を揺らす。その小さな身体が、ほんの少し縮こまった。
「……ごめんなさい」
その顔を見て、胸がざわつく。
リオンは何も悪くない。頭では分かっているのに、今は顔を見ているだけでイライラしてしまう。
「……もういい」
「お姉様?」
「私、部屋に戻るから」
「お姉様……!」
私はくるりと踵を返した。
その瞬間――足元がぐらりと揺れた。
「え……?」
階段の踊り場で踏み出した足が、段差を踏み外す。
「お姉様!!」
身体が大きく前へ傾いた。
「きゃっ――!」
ドンッ――。
* * *
「……お嬢様」
遠くから声が聞こえる。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
誰かが心配そうに呼んでいる。
「……ん……」
重いまぶたをゆっくり開くと、見慣れた天井が目に入った。いつも見ているはずなのに、今は妙にぼんやりして見える。
「お嬢様!」
「……ミア?」
目の前にいたのは、私の専属侍女、ミアだった。いつも私のそばにいて、身の回りのことを何でもしてくれる人だ。
整えられた髪も、きちんとした服装も、いつもと変わらない。けれど今は、その表情に明らかな心配が浮かんでいた。
「よかった……!」
ミアがほっと息をつく。
「お身体に痛むところはございませんか?」
「……うん。大丈夫」
そう答えたものの、頭の中はまだぼんやりしている。
身体を起こそうとすると、ミアがすぐに背中へ手を添えてくれた。
「ご無理はなさらないでくださいませ。治癒師様にも診ていただきましたが、念のため安静にと仰せでした」
「治癒師……?」
「はい。階段から落ちたあと、こちらへお運びして、すぐに診ていただきました。幸い、大きなお怪我はございませんでした」
「……階段」
そうだ。私、階段から――。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
スマホ。学校。友達。家族。
そして――乙女ゲーム。
「……え?」
私は目を見開いた。
頭の中に、知らないはずの人生が一気に流れ込んでくる。
スマホを片手にゲームをしていた自分。学校で友達と話していた自分。家に帰って、一人で過ごしていた時間。
そして、何度も何度も遊んだ、あの乙女ゲーム。
「……そうだ」
思わず呟いた。
私には、前世の記憶がある。
しかも、今いるこの世界は――。
「……あの乙女ゲームの世界?」
信じられない。でも、思い出すものすべてが、今の私が知っているものと重なっていく。
この家。この国。そして、私自身の名前。
「セレティア・アストレイア……」
アストレイア侯爵家の娘。それが今の私だ。
ゲームの中では、攻略対象のひとりであるリオン・アストレイアの姉として、名前が出てくる程度の人物だった。
物語の中心にいるわけでもなく、画面の端に名前が出てくるくらいの存在。
「……私、セレティアなの?」
いや、セレティアなのは間違いない。十二年間、そう呼ばれて生きてきたんだから。
でも、前世の私も確かに私だった。
二つの人生の記憶が頭の中で重なって、何が何だか分からなくなる。
どうして私は、この世界にいるの?
そして、どうしてこんなにも胸が苦しいの?
「……お嬢様?」
ミアの声で我に返った。
「……ミア」
「はい」
「さっき……私、誰かに会った?」
「はい?」
「階段から落ちる前に……」
思い出そうとすると、胸の奥がざわりと揺れた。
「……リオン?」
口から名前がこぼれる。
リオン。ゲームの攻略対象で、今の私の弟。
それは分かる。なのに、ついさっき彼と何を話したのか、前世の記憶に押し流されて、うまく思い出せなかった。
「私、リオンに何を……」
「お嬢様?」
ミアが心配そうに顔を覗き込む。
そのとき、扉の向こうから小さな声が聞こえた。
「……お姉様?」
私は扉を見る。
「リオン様が、ずっとお部屋の前でお待ちでした」
「……ずっと?」
「はい。お嬢様がお目覚めになるのを、ずっと心配なさっていたのです」
ミアがそっと扉を開ける。
そこには、目を赤くしたリオンが立っていた。小さな手を胸の前で握りしめ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……お姉様」
その顔を見た瞬間、頭の中で何かが繋がった。
――血の繋がらない弟。
――魔法の才能に恵まれた男の子。
そして、階段の前で交わした言葉。
「……リオン」
「お姉様……!」
リオンがこちらへ駆け寄ってくる。
「よかった……!」
その顔を見た瞬間、胸がきゅっと痛くなった。
そうだ。私はこの子に嫉妬していた。
魔法が使えることが羨ましくて、私より才能があることが悔しくて。
でも、だからって、あんな態度を取っていい理由にはならない。
この子は何も悪くない。
むしろ、こんな私のことをずっと心配してくれていたんだ。
「……ごめんね」
「……?」
リオンが不思議そうに私を見る。
「さっきは……ひどいこと言った」
「……」
「リオンが魔法を使えること、羨ましかったの」
自分でも驚くほど、素直に言葉が出てきた。
「でも、それをリオンにぶつけるのは違うよね。本当にごめんね」
リオンはじっと私を見つめた。
そして、小さな声で言った。
「……僕、ずっとお姉様に嫌われていると思っていました」
「嫌いじゃないよ」
私は手を伸ばした。
「むしろ――大好き」
リオンは目を丸くした。
「……本当に?」
「うん。本当だよ」
そう答えると、リオンの瞳がみるみる潤んでいく。
「……僕も」
小さな身体が、勢いよく胸に飛び込んできた。
「僕も、お姉様が大好きです……!」
私はその背中を、ぎゅっと抱きしめた。
「うん。ありがとう、リオン」
小さな背中を撫でながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
不思議だった。
前世では、家族と呼べる存在はもういなかった。
でも今は、この子がいる。
「……今度こそ」
私は小さく呟いた。
「家族と幸せに暮らしたい」
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「セレティア!」
扉が開き、お父様とお母様が部屋へ入ってくる。
きっと、私が目を覚ましたと知らせを受けて、急いで来てくれたのだろう。
二人とも、普段の落ち着いた侯爵夫妻の姿とは違っていた。
「セレティア、大丈夫なのか!?」
「痛いところはない?」
お父様がベッドのそばまで駆け寄り、お母様も心配そうに私の顔を覗き込む。
「大丈夫だよ」
そう答えると、二人ともほっと息をついた。
私は二人の顔を見る。
前世の記憶を思い出した今なら分かる。
この人たちは、私を心配してくれている。ちゃんと、私のことを大切にしてくれている。
「……お父様」
「……!」
お父様が目を見開いた。
最近の私は、家族とまともに話そうともせず、いつも不機嫌な顔をしていた。だから、こうして自分から声をかけたことが意外だったのかもしれない。
「お母様」
「セレティア……?」
「心配かけて、ごめんなさい」
私は笑った。
「これからは、もっとちゃんと話すね」
お母様の目に涙が浮かぶ。
「……ええ」
そして、優しく微笑んだ。
「あなたが元気なら、それだけでいいのよ」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
私は、この世界で生きていく。
今度こそ、この家族と一緒に。
――幸せになるために。
そして、私はまだ知らなかった。
私が知っているはずだった「物語」が、この世界ではすでに少しずつ変わり始めていることを。




