プロローグ『私、恋愛しません!』
「ティア。こういう時は、俺を頼れ」
そう言って、ノアが手を差し出した。
私は、その手を見つめる。昔から何度も、私を助けてくれた手だ。
ノアは幼い頃からずっと一緒だった、私の幼馴染。黒い髪に青い瞳、昔から変わらない整った顔立ち。優しくて頼りになって、いつだって私の味方でいてくれる人。
――ノア。
私は少しだけ迷ってから、その手を取った。
「……ありがとう、ノア」
「どういたしまして」
いつものように笑うノア。その笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
けれど、私はこの人に近づいてはいけない。そう決めていた。
「……ごめんね、ノア」
「……どうして謝るんだ?」
握った手が、少しだけ強くなる。青い瞳が寂しそうに揺れるのを見て、胸がどくんと鳴った。
「ティア?」
――だめ。
私はそっと手を離した。
「なんでもないの」
優しいノアに、これ以上心配をかけたくない。けれど、本当の理由を話すこともできなかった。
私は知っている。
この人も――ゲームの攻略対象だということを。
* * *
「対応、見事であったぞ」
広間に響いた凛とした声に、私は振り向いた。
そこに立っていたのは、金色の髪にエメラルドの瞳を持つ、この国の王太子殿下。王族らしい気品をまといながらも、その表情は意外なほど柔らかい。
「そなたは、大切な者を守ることができるのだな」
「……ありがとうございます」
まっすぐに向けられる眼差しに、私は思わず姿勢を正した。
私は知っている。この人も――攻略対象。ゲームの中では、主人公が恋をする相手のひとりだ。
だから。
「……あまり、私に近づかないでください」
「ん?」
王太子殿下は、不思議そうに首を傾げた。
「なぜだ?」
「……それは」
言えるわけがない。あなたが攻略対象だから。あなたにも、死んでほしくないから。
「……なんでもありません」
王太子殿下は、ますます不思議そうな顔をした。
……どうして、そんな顔をするの。
* * *
「自分が生きていなければ、誰も守れません」
目の前に立つのは、赤い髪に鋭い緑の瞳を持つ騎士。王国騎士団に所属する、アルヴィン・グランフォードだ。
私に剣を教えてくれた人。
「セレティア嬢。強くなるというのは、勝つことではありません」
「……じゃあ、何ですか?」
アルヴィンは真っ直ぐ私を見た。
「生き残ることです」
静かな声だった。けれど、その言葉はなぜか胸の奥に残った。
「あなたが生きていれば、守れるものはあります」
――生き残る。
その言葉を、私は忘れなかった。
* * *
「君には、魔力がないわけじゃない」
紫の髪に紫の瞳。王国でも指折りの魔術師――アシェル・ヴァルディア。
魔法に関することなら、彼の右に出る者はいないと言われている。そんな人が、今は私の魔力を見つめていた。
「……じゃあ、私は何なんですか?」
「それを調べるのが、私の仕事だ」
淡々とした声。その視線には、何かを探るような鋭さがあった。まるで、私自身も知らない秘密を見つけようとしているみたいに。
* * *
「……知っている」
「え?」
腕の中で、銀灰色の猫が小さく瞬きをした。
ふわふわの毛並みに白っぽい毛先、少し青みがかった瞳。私はこの猫が大好きだった。
いつの間にか屋敷に現れて、気づけばいつも私のそばにいる。抱き上げても逃げないし、眠るときだって一緒だ。
「ルゥ、今日も一緒に寝ようね」
「……にゃ」
「ふふ。かわいい♡」
私は笑って、その毛並みを撫でた。
けれど、私は知らない。
この猫が、私が生まれるよりずっと前からこの世界を知っていることも、私の知らないこの国の歴史を知っていることも。
人の姿を取ることができる、古い種族だということも。
そして、私のことをずっと見ていることも。
* * *
――私は、この世界を知っている。
前世で何度も遊んだ乙女ゲーム。貴族の令嬢として生まれ変わった今なら、ゲームの設定も、この世界の人々も覚えている。
そこに登場した、攻略対象たち。
私は何度もゲームをやり込んだ。いろんな選択肢を選び、いろんなルートを見た。
だから、気づいてしまった。
攻略対象たちは、私――セレティアと関わったあと、次々と死んでいく。
どのルートでも、どんなに違う選択をしても、最後には彼らは死んでしまう。
「……どうして」
何度プレイしても、その結果だけは変わらなかった。
だから私は、決めた。
攻略対象に近づかない。必要以上に関わらない。もちろん――恋愛もしない。
そうすれば、彼らが私と関わることもなくなる。そうすれば、誰も死なない。
私は、そう思っていた。
けれど、私の人生を、私自身で選びたい。
だから私は、もう一度言う。
「私は――恋愛しません!」
――そう決めたはずなのに。
「ティア。こういう時は、俺を頼れ」
その声を、私は知っている。
「……ノア」
どうして。
一番近くにいる攻略対象が、私に近づいてくるの――?




