幽霊なんて、怖くありません!④
結局、幽霊の正体は隙間風だった。
屋敷では一日に何度か、空気を入れ替えるために窓を開けるらしい。
どうやらその日、たまたま西棟三階の窓を閉め忘れてしまったようで、しかも運悪く、その夜は風が強かった。
窓のわずかな隙間を風が通り抜けるたびに、
『うぅぅぅぅ……』
と、女の人が啜り泣いているような音が鳴っていたのだ。
それを聞いたメイドの話が、
『女の人が泣いていた』
になり。
いつの間にか、
『髪の長い女の人が歩いていた』
になり。
さらには、
『誰かが追いかけられた』
にまでなっていたらしい。
誰も見てないじゃん!
ほんと、くだらない。
でも――。
私とリオンとノアの、小さな冒険はこれで幕を閉じた。
めでたし、めでたし。
* * *
――ノア視点。
今日は、疲れた。
ベッドに横になり、暗い天井を見つめる。
まさか、ティアたちと幽霊の正体を調べることになるとは思わなかった。
しかも屋敷中の人間を起こして、アストレイア侯爵夫人に叱られることになるなんて。
思い出す。
あのあと、夫人は俺たち三人をまとめて抱きしめた。
『何事もなくて、本当によかったわ』
驚いた。
まさか、俺まで抱きしめられるとは思わなかったから。
母親に抱きしめられるというのは――あんなにも温かいものなのか。
こんなふうに抱きしめられた記憶は、俺にはない。
ティアといると、本当に初めて知ることばかりだ。
コンコン。
突然、扉を叩く音がした。
こんな時間に誰だ?
身体を起こし、扉へ向かう。
「誰だ?」
「ノア、起きてる?」
ティア?
扉を開けると、そこにはティアとリオンが立っていた。
「どうした?」
「今日はごめんね。迷惑かけて」
「いや。それはいいけど……」
俺はティアの隣を見る。
「リオンも、どうした?」
「…………」
リオンは何とも言えない顔をしている。
そして俺は、二人がそれぞれ抱えているものに気づいた。
「……枕?」
どう見ても寝具だった。
「僕も姉様も、一人で眠るのが怖くなってしまって」
「幽霊はいなかっただろ」
「「怖い!!」」
二人の声が綺麗に重なった。
「……そうか」
意味が分からない。
「それでね」
ティアが笑う。
「リオンが枕を持って私の部屋に来たの」
「はい」
「だから、ノアももしかしたら一人じゃ怖いかなって思って」
「俺が?」
「うん」
「怖くない」
「やっぱり?」
ティアがあっさり頷いた。
「必要なかったね」
俺が怖がると、本気で思ったのか。
でも、わざわざ様子を見に来たのかと思うと、悪い気はしなかった。
「ありがとな」
そう言うと、ティアが少し目を丸くした。
それから、
「へへ」
嬉しそうに笑った。
「じゃあ、入っていい?」
「何しに?」
「寝るの」
「……どこで?」
「ノアの部屋で」
……嫌な予感がした。
ティアが俺の後ろを覗き込む。
「ベッド、こんなに広いんだし。三人で寝ても問題ないでしょ?」
「問題あるだろ!」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだ」
「ノアは真ん中でいいよね」
聞いてない。
「リオンは右でいい?」
「はい」
「じゃあ、私、左!」
「おい!」
二人は俺の横を通り過ぎ、そのまま部屋へ入っていく。
「待て、ティア!」
「ふわぁ……」
「人の話を聞け!」
大きなあくびをしたティアは、もうベッドに潜り込んでいた。
リオンまで反対側から入っている。
「おやすみなさい、姉様。ノア兄様」
「おやすみ、リオン、ノア」
……なんなんだ、こいつら。
「ノア?」
「……なんだ」
「寝ないの?」
誰のせいだ。
そう思ったけれど、言っても無駄な気がした。
それに、二人を追い返す気にもなれなかった。
「……寝る」
諦めて、二人の間に横になる。
右にリオン。左にティア。
なんでこうなった。
そう思いながら目を閉じる。
しばらくすると――。
「すー……」
小さな寝息が聞こえた。
リオンだ。
もう寝たのか。
あれだけ怖がっていたくせに。
「ノア」
小さな声がした。
目を閉じたまま答える。
「なんだ」
「寝た?」
「寝た」
「寝てないじゃん」
くすくすと笑う声。
目を開けると、ティアがこちらを見ていた。
薄暗い部屋の中で、楽しそうに笑っている。
「怖くて眠れないのか?」
「ううん」
ティアは首を振った。
「もう全然怖くないよ」
「じゃあ寝ろ」
「もうちょっとしたらね」
ティアが小さく笑う。
「リオンと押しかけて、ごめんね」
「……別にいい」
「リオンが枕を持って私の部屋に来るものだから」
ティアは眠っているリオンを見る。
「ノアも、もしかしたらって思って」
「…………」
「必要なかったね」
「……ありがとな」
「へへ」
また笑った。
ティアは、こういうところがある。
誰かが一人でいたら、当たり前みたいに気にかける。
きっと、この家で育ったからなんだろう。
アストレイア侯爵も、夫人も。
ティアも、リオンも。
この屋敷で働いている者たちも。
誰かが笑えば一緒に笑い、何かあれば本気で心配する。
この家に来てから、何度も感じていた。
――温かい。
「ねえ、ノア」
「ん?」
「覚えてる?」
「何を?」
「前に、私が聞いたこと」
ティアが俺を見る。
「ノアは、何をしてるときに幸せって感じる? って」
覚えている。
あのとき俺は、答えられなかった。
ティアは迷うことなく答えた。
家族と一緒にいるとき。
家族といると、幸せなのだと。
「ここに来て一週間くらい経ったけど」
ティアが少しだけ首を傾ける。
「何か見つかった?」
「…………」
答えようとして、言葉が出なかった。
幸せ。
今まで、そんなことを考えたこともなかった。
けれど、この家に来てからのことを思い出す。
みんなで食事をした。
三人で同じ机に並んで勉強した。
初めて料理をした。
ティアとリオンに振り回されて、くだらないことで笑って。
今日は三人で怒られた。
そして――三人まとめて、抱きしめられた。
『何事もなくて、本当によかったわ』
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
知らなかった。
こんな気持ち。
「……分からない」
「そっか」
ティアは残念そうにはしなかった。
ただ、いつものように笑っている。
「でも」
「ん?」
「見つかったような気はする」
「ほんと?」
「ああ」
自分のことを待っている人がいること。
名前を呼ばれること。
一緒に笑うこと。
心配されること。
抱きしめられること。
そんな当たり前みたいなことが、俺には――。
頬に、何かが伝った。
「……?」
手で触れる。
濡れていた。
「ノア?」
ティアの顔から笑みが消える。
「どうしたの?」
自分でも分からなかった。
悲しいわけじゃない。
苦しいわけでもない。
なのに、もう一筋、頬を伝った。
「ノア!?」
ティアが慌てて身体を起こす。
「ごめんね! 私、何かした!?」
「違う」
「じゃあ、どうしたの?」
ずっと、これが普通だと思っていた。
何も困っていなかった。
欲しいと思ったこともなかった。
だって、知らなかったから。
「……俺」
「うん」
「今まで、寂しかったみたいだ」
「……寂しい?」
「ああ」
「ティアたちと過ごして……分かった」
「ノア……」
次の瞬間、ぎゅっと抱きしめられた。
「……ティア?」
「これからは私がいるよ!」
「……え?」
「寂しかったら、うちに来ればいいじゃん!」
ティアは、まるで当たり前のことのように言った。
「なんなら、うちの子になる?」
「は?」
ティアが俺を抱きしめたまま、ぱっと顔を上げた。
「私がお姉ちゃんになってあげる!」
「……姉?」
「うん!」
「それは嫌だ」
「なんで!?」
「嫌なものは嫌だ」
「いいじゃん! 私、お姉ちゃん得意だよ?」
「自分で言うな」
「リオンに聞いてみてよ!」
「寝てるだろ」
「むぅ……」
ティアが頬を膨らませる。
その顔を見ていたら、ふっと笑いが漏れた。
「……何笑ってるの?」
「いや」
「私、真剣なんだけど!」
「分かってる」
分かってるから。
「……ありがとう、ティア」
「うん!」
ティアがまた笑った。
そして、もう一度ぎゅっと抱きしめられる。
隣では、何も知らないリオンが静かな寝息を立てている。
『家族といると、幸せなの』
いつかティアが言った言葉が、ふいに浮かんだ。
あのときは分からなかった。
どうしてティアが、あんなに迷いなく答えられるのか。
でも今は――。
「……そうか」
「ん?」
「なんでもない」
「そう?」
「ああ」
俺はそのまま目を閉じた。
隣にはリオンがいて、すぐそばにはティアがいる。
今夜は、不思議とよく眠れそうだった。
* * *
ちなみに翌朝。
案の定、夜中に勝手にノアの部屋へ押しかけた私とリオンは、ママとミアにしっかり怒られました。
……ノアだけ怒られなかったの、ちょっとずるくない!?




