星の降る夜、境界線の崩壊
廃墟でのいざこざから逃げ出し、俺たちは森の奥深くへと潜り込んだ。
空には、この世界特有の「双子星」が、まるで監視者のように冷たく光っている。地上には紫色の花々が咲き乱れ、風が吹くたびに、それが銀色の粉塵を舞い上げた。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさい。獣人を殴り飛ばしたときの手応えが、まだ右腕に痺れとして残っている。アドレナリンのせいだろうか。視界の端が時折、万華鏡のように揺らぎ、色彩が現実離れした輝きを放っていた。
帆奈が小さな川辺で足を止め、俺を振り返った。
彼女の制服はところどころ汚れ、白いブラウスには獣人の返り血がついている。それでも、彼女は今の俺にとって、この世の何よりも尊い聖母のように見えた。
「工藤さん……さっきは、かっこよかったよ」
彼女の声が、夜風に溶ける。その言葉は、どんな褒め言葉よりも深く俺の乾いた心に染み込んだ。これまで、塗装業の現場で「お前はダメだ」「また失敗か」と怒鳴られ続けてきた人生。俺は、誰かに認められるという経験に、これほどまでに飢えていたのだ。
「そんなことない。俺はただ……君を守りたかっただけだ」
自分の声が、どこか遠い場所から聞こえるような気がした。
俺は歩み寄り、彼女の前に立つ。月の光が、彼女の顔を幻想的に照らしている。この瞬間、俺の中で何かが決壊する音がした。
戻りたい。元の世界へ。
そう思っていたはずだった。灰色の現場、冷たい弁当、誰にも必要とされない孤独な部屋。……だが、ここには秋帆奈がいる。彼女が俺を必要とし、俺が彼女を守るこの狂った世界の方が、よほど「本当の自分」でいられるんじゃないか?
「……ねえ、工藤さん」
彼女が静かに俺の名を呼ぶ。
その瞳には、かつてないほど濃い情愛が浮かんでいた。あるいは、それはこの世界特有の薬理作用が引き起こした、偽りの愛情なのかもしれない。だが、もうどちらでも構わなかった。
「目、閉じて」
彼女が囁く。俺は吸い込まれるように瞼を閉じた。暗闇の中で、微かな花の香りが漂ってくる。彼女の吐息が頬にかかる。次に感じたのは、唇に触れた柔らかい感触だった。
それは、ただのキスではなかった。
まるで脳の奥底にある回路が、ショートを起こしたような衝撃。その瞬間、世界が激しく回転し始めた。
空を支配していた二つの月が一つに重なり、周囲の木々が光の奔流となって溶けていく。足元の地面が消え去り、俺たちは奈落の底へ突き落とされるような感覚に襲われた。
ああ、これが「帰還」の合図なのか。それとも、この世界が俺たちの精神を完全に飲み込もうとしているのか。
「……っ!」
強烈な閃光が視界を埋め尽くす。
意識が急速に現実に引き戻されていく不快感。シンナーの匂い、湿った空気、都会の喧騒。そんな不潔な感覚が、全身を這い上がってくる。
カッ、と目を開いた。
視界に映ったのは、メルヘンの森ではない。雑多な看板が並び、ネオンが雨に濡れる、冷え切った街角だった。
戻った。
俺たちは、元の世界へ帰還したのだ。
「やった……戻れたんだ……! なあ、帆奈ちゃん!」
俺は喜び勇んで隣にいるはずの彼女に手を伸ばした。だが、その手は虚空を掴んだ。
そこにいたのは、さっきまで俺と笑い合っていた少女ではなかった。
街灯の明かりの下、彼女は地面に座り込み、アスファルトの隙間に生えた雑草を指先でなぞっていた。その瞳は焦点が合っておらず、口元からは泡のような涎がこぼれている。
「あはは……ウサギさんが、あそこで笑ってるの……ねえ、工藤さん、聞こえるでしょう? 楽しいね、ずっと遊んでようね……」
彼女は、俺など見ていない。彼女の瞳には、まだあのメルヘンの世界が映っているのだ。
背筋に、氷柱を突き刺されたような寒気が走る。俺たちの「ルーテリラ」など、どこにもなかった。俺たちはただ、コンビニの裏手で、路上に座り込んでドラッグに溺れていた二人の「ジャンキー」に過ぎなかったのだ。
夜の冷たい雨が、俺の顔を打ち始めた。彼女の呟きが、この街の騒音の中で異様に浮き上がって聞こえる。
俺が恋い焦がれたあの冒険は、最初から存在しなかった。ただの薬物による、救いのない幻覚だった。
その時、アスファルトを叩く激しい足音が近づいてくるのが聞こえた。




