雨の降る現実へ
『おい、そこの二人! 動くな!』
鋭い声と共に、警察官二人が俺たちを囲い込んだ。
まばゆい懐中電灯の光が、俺の目を焼く。俺は反射的に庇うようにして秋帆奈を抱えようとしたが、今の彼女は俺が守りたかった「少女」ではない。ただの、虚ろな目をした中毒者だった。
「お前、夕方からこの辺で逃げ回ってたやつだな。女子高生も一緒だ。こんな時間まで連れ回して、何をしてるんだ!」
警察官の怒声が、夢から覚めた後の冷たい現実を突きつけてくる。
彼らは帆奈の肩を掴み、彼女を無理やり立たせた。彼女は抗うこともせず、ただ夢を見るような幸せそうな微笑みを浮かべたままだ。
「あはは……ねえ、ウサギさんが怒ってるよ。早くおうちに帰ろうよ、工藤さん……」
彼女の支離滅裂な言葉に、警察官が顔をしかめる。一人が彼女の制服のポケットに手を突っ込み、乱暴に鞄を奪った。中から溢れ出たのは、学生証と、銀紙に包まれた小さな錠剤の袋だった。
「……なんだ、これは。おい、これだけの量……薬やってんな。お前もだ」
警察官が俺の腕を掴み、背中へ回した。抵抗する気力はなかった。いや、俺はまだ、彼女が連行されるのをぼんやりと見ていたかったのかもしれない。彼女が何者なのか、その事実を知るのが怖かった。
警察官の一人が、彼女の学生証を読み上げる。読み上げられた名前は「城秋帆奈」という名前ではなかった。全く別の、聞いたこともない名前が読み上げられた。なんて名前だったのか、"知らない名前"という事実しか俺の脳では処理できなかった。
「お前、この子と知り合いなのか? こいつは家出人として捜索願が出てる……いや、それ以前に常習者だ」
彼女は、俺が出会った「城秋帆奈」という輝かしい少女ではなく、ただ社会の影で潰れていく一人の人間だったのだ。
彼女はパトカーへ押し込まれていく。その直前、彼女は俺を一瞬だけ見た。その瞳に映ったのは、夢の続きか、あるいは俺という哀れな道連れか。
彼女はパトカーの窓に額を預け、また空中の何かを捕まえようと笑い始めた。
俺は、その夜のうちに解放された。事件性よりも、薬物による幻覚の過剰摂取が疑われ、しばらくの事情聴取と検査の後、独りぼっちで深夜の交番から放り出された。
家に戻る足取りは重く、鉛のようだった。アパートはしんと静まり返っていた。塗装の仕事も、もう終わりだ。明日にはクビの連絡が来るだろう。
俺は、あの夜、警察に押収された「飴ちゃん」のことを思い出した。
彼女がくれた、最初で最後の贈り物。あれさえあれば、またあの夢を見られるかもしれない。これが中毒というやつなのだろうか。
俺は喉の渇きを覚え、キッチンへと向かった。
ふと、視界の隅に何かが映った。冷たい光を放つ月明かりの下、玄関に、小さな銀紙の包みが置かれていた。
心臓が止まるかと思った。
窓は閉まっている。鍵も掛かっている。ここは三階の部屋だ。誰かが侵入できるはずがない。
俺は震える手でそれを拾い上げた。
銀紙の感触。指先に伝わる冷たさと、微かな甘い花の香り。 それは、紛れもなくあの「招待状」だった。
「……なんで」
俺の声が、空っぽの部屋に虚しく響く。
窓の外では、現実の冷たい雨が降っている。街の雑音は消え、世界は静寂に包まれていた。
俺は銀紙をゆっくりと開いた。中には、真珠のように光る小さな粒が入っている。
それを飲み込めば、またあの場所へ帰れる。ウサギの住む広場へ。彼女が笑って迎えてくれる、完璧な夢の世界へ。
現実という名の退屈で過酷な監獄に、これ以上留まる意味なんてあるのか?
俺は、塗装工としての誇りも、平凡な日常も、すべてを失ったはずだった。
雨音が激しくなる。
俺は飴を口に含んだ。舌の上で溶ける感覚が、脳の深部を痺れさせる。
……また、あの入店音が聞こえる。
『キラキラリーン!』
俺は、抗うことをやめた。この孤独な現実を塗りつぶすため、俺は目を閉じる。
もう、二度と覚めなくていい。
たとえその代償が、俺の人生という名の「現実」の完全な崩壊だとしても。
俺は一人、薄暗い部屋の中で、決して訪れることのない永遠のルーテリラへと沈んでいった。
「境界線は、あなたのすぐ隣にあるのかもしれません」
灰色の日常に疲れ果てた男が見た、残酷で甘美な幻影。
城秋帆奈という少女は、救世主だったのか、あるいはただの誘惑だったのか。
物語が終わった今も、あなたの枕元には、小さな銀紙が置かれているかもしれません。
――飴の香りがしたら、どうか目を閉じて。
そこからは、あなたの物語です。




