光を纏った救世主
「ほら、立って!」
彼女は躊躇なく俺の腕を掴み、引き上げた。
華奢な指先からは想像もできないほどの力がこもっていた。まだ震えが止まらない俺に対し、彼女は不敵に笑う。
「大丈夫? 怪我はしてない? あんな連中に捕まったら、本当に何をされるか分かんないんだから。しっかりしてよ!」
叱咤されているのに、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、仕事場で受ける湿り気を含んだ侮蔑とは違い、彼女の言葉には澄み切った熱があった。
「あ、ありがとう……助けてくれて……」
「お礼ならいいよ。私も一人だと心細かったし」
彼女はポンと自分の胸を叩いて名乗った。g城秋帆奈。名前すら眩しい。
俺と違い、この圧倒的な非日常の中でも堂々としている彼女を見て、俺は自分がどれほどちっぽけな人間であるかを突きつけられたような気分だった。いや、それ以上に「この人と一緒にいたい」という、依存に似た感情が胸の奥で芽生えていた。
「とりあえずここを離れよう。この先の路地を抜ければ少しは安全なはず」
彼女に先導されるまま、俺は走り出した。メルヘン世界の風景はどこまでも狂気じみていた。キャンディでできた街灯が甘い香りを放ち、道端の草花が不規則に色を変えながら鳴いている。しかし、彼女と並んで走っていると、その狂気さえもが、何かの物語のプロローグのように感じられてしまうから恐ろしい。
しばらく走り、人気の少ない広場で彼女は足を止めた。彼女は制服のスカートについた土を払い、ふう、と息を吐く。その横顔の美しさに、俺は再び呼吸を忘れた。
「……あの、帆奈ちゃん。ここは、一体どこなんだ?」
「さあね。一応ここはルーテリラって場所らしいけど詳しいことは何も…。気づいたらここにいたって感じ」
この世界の名前はルーテリラというらしい。俺たちは完全に異世界へと迷い込んでしまったようだ。
「……私、元の世界に戻る方法を探してる。工藤さんもでしょ?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。その瞳には、嘘がない。
俺は、自分がなぜコンビニにいたのかを思い返そうとした。残業、怒号、シンナーの匂い。あの地獄のような日常から、どうやってこの場所へ繋がったのか。記憶の糸がどこかでぷつりと切れているような、奇妙な感覚。
「はい。……戻りたいです。元の、灰色の日常に」
「あはは、変なの! あんな窮屈な世界、戻って何があるの? でもまあ、お家は恋しいよね。じゃあ、協力して探そうよ!」
彼女は快活に笑い、水筒と小さな飴の包みを俺に差し出した。
「これ、元いた世界の水……だと思うんだけど。よかったら飲んで。あと飴ちゃんも。甘いもの食べると、少しは冷静になれるでしょ?」
彼女の手から、水筒とキャンディを受け取る。
その時、指先がわずかに触れ合った。俺の体温よりもずっと高く、どこか陶酔を誘うような熱があった。女性経験など皆無の俺にとって、その触れ合いだけで頭の中が真っ白になるほどの衝撃だった。
「あ、ありがと……」
「顔、真っ赤だよ? 工藤さんって、意外と純情なんだね」
彼女の屈託のない笑顔が、俺の荒んだ心を少しずつ侵食していく。
この世界がどんなに危険で、住人たちが異質だとしても、彼女が隣にいるなら――いや、彼女となら、このまま終わらない冒険を続けてもいいんじゃないか?そんな恐ろしい考えが、脳のシワの隙間に忍び込んでくる。
水筒の水を一口飲むと、喉を通り過ぎる液体は、普通の水とは違った。甘く、芳醇で、どこか懐かしい香りがする。飲んだ瞬間、先ほどまで頭を支配していた不安と恐怖が、まるで雲が晴れるように霧散した。
世界が鮮やかに彩られ、先ほどまで恐ろしく見えていた獣人たちの姿さえ、どこか滑稽な道化のように見えてくる。
「……すごい。すごく、楽になった」
「でしょう? ここは不思議な場所だからね。あ、あんまり飲みすぎちゃダメだよ。帰り道を見失っちゃうから」
彼女はそう言って、悪戯っぽくウィンクした。そのウィンクが、俺の人生で最も美しい瞬間だと確信した。
こうして、俺と帆奈の「元の世界へ戻るための旅」は始まった。
だが、その旅がどれほど歪んだ道筋を辿っているのか、この時の俺は知る由もなかった。
広場を後にし、私たちは情報を求めて、より奥深くのメルヘン世界へと足を踏み入れていく。
空には二つの月が浮かび、星々が地上に降り注いでいる。俺は彼女の背中を見つめながら、心の中で強く願った。
どうか、この夢が終わりませんように。いや、むしろ、このまま現実なんて二度と思い出せなくてもいい。そんな、破滅へのカウントダウンが始まっていたことにも気づかずに。




