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ルーテリラ  作者: すんあ
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灰色の空の下で

 シンナーの匂いが鼻腔の奥にこびりついて離れない。

 この仕事を始めて三年。俺――工藤宙くどうそらにとって、この独特の溶剤の臭いは、自分の人生そのもののような気がしていた。無機質で、冷たくて、どこか頭を麻痺させるような不快な臭い。


「おい、工藤! 何度言ったらわかるんだ。そこ、塗りムラがあるって言ってんだろ!」


 現場監督の怒声が、ヘルメットの中で反響する。


 俺は心臓を跳ね上げさせながら、慌てて塗装ガンを握り直した。手は小刻みに震えている。自分でもなぜこれほど怯えるのか分からない。ただ、怒られるのが怖い。誰かに責められるのが、息ができなくなるほど怖いのだ。


「す、すみません……すぐにやり直します」


「チッ、ったく。これだから正社員枠で入れた若造は……。お前、本当に仕事向いてないぞ」


 監督が吐き捨てるように言い放ち、俺の肩を強く突き飛ばして去っていった。

 周囲の職人たちの視線が痛い。同情か、軽蔑か。そのどちらもが今の俺には突き刺さる。俺は万年下っ端だ。二十六歳という、世間では中堅と呼ばれるはずの年齢になっても、俺は未だに「使えないやつ」というレッテルを剥がせずにいる。


 なぜ、辞めないのか。


 自分でもそれが不思議だった。いや、理由は分かっている。俺には「ここを辞めたら、次はどこにも行けない」という根拠のない恐怖があるからだ。唯一、正社員として拾ってくれたこの会社という場所に、俺は腐った鎖のように繋ぎ止められている。


 ――自分は、何のために生きているんだろう。


 夕暮れ、現場を片付けながら俺は空を見上げた。鉛色の雲が垂れ込めている。まるで俺の未来を暗示するかのような、重苦しい空だ。


 アパートに帰っても、待っているのは静寂だけだ。コンビニの弁当をレンジで温め、ぬるいビールを飲む。テレビをつければ、キラキラと輝く芸能人たちが別世界の話をしている。その画面と、自分の生活の間の圧倒的な乖離に、いつも胸が締め付けられるような虚しさを覚える。


 その日、俺は無性に甘いものが欲しくなった。残業で遅くなった帰り道、駅前のいつものコンビニに立ち寄った。自動ドアが開く。


 『いらっしゃいませ』


 そんな日常的な挨拶を期待していた俺の耳に、異質な音が飛び込んできた。


『キラキラリーン!』


……なんだ?


 それは、コンビニの自動ドアの音などではない。まるで魔法のステッキでも振ったかのような、あまりにメルヘンチックで、耳が溶けるほど甘いチャイム音だった。俺は一瞬、眩暈を感じて目を閉じた。

 

また、貧血か。最近、過労で幻聴でも聞こえるのかもしれない。だが、目を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。そこは、見慣れたコンビニではなかった。

 

 パステルカラーの草花が、まるで生き物のように揺れている。天井があるはずの場所には、見たこともない七色の星空が広がっていた。陳列棚に並んでいるのは、カップ麺や飲料ではない。宝石のような果実や、虹色に発光する液体が詰められた瓶だった。


 さらに、レジに視線を移して、俺は凍りついた。エプロンをつけたウサギが、二足歩行でレジ打ちをしている。その隣では、小太りのクマが器用に缶詰を棚に並べていた。


「……夢、か?」


 俺は自分の頬をつねった。痛い。夢じゃない。心拍数が異常な速さで上昇する。店内の動物たちが、一斉に俺の方を向いた。彼らの瞳は人間と同じように知性を宿しているが、その色形はあまりに異質だった。彼らが口を開く。しかし、発せられるのは言語として認識できない、音楽のような調べだった。


「ひっ……!」


 俺は背中を向けて逃げ出した。


 自動ドアを突き破る勢いで外へ飛び出す。しかし、そこに広がっていたのは駅前の住宅街ではなかった。


 色とりどりの巨大なキノコが森のように立ち並び、空にはクジラのような巨大生物が優雅に泳いでいる。

 

「嘘だ……嘘だ……!」

 

 俺は泣きそうになりながら、ただひたすらに走った。


 ここは一体、どこなんだ。俺の日常は、俺の灰色の現実はどこへ消えたんだ。


 恐怖で足がもつれ、転倒する。立ち上がろうとしたその時、路地の影から「それ」が現れた。


 強面の獣人が二人、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべて俺に近づいてくる。彼らの手には、鋭利な刃物のようなものが握られていた。


「おい、新入りか? ここは出口のない迷宮だぞ。お前のその『持ち物』、少し分けてもらおうか」


 獣人たちの声が、今度は不気味なほど鮮明に日本語として脳に響く。


 死ぬ。


 直感的にそう思った。仕事で毎日怒鳴られ、言い返せずにいた俺だ。この理不尽な獣人たちに襲われれば、何の抵抗もできずに終わるだろう。


 俺は膝を抱えて、地面にうずくまった。


 「殺さないでくれ」と懇願する声さえ、喉に詰まって出てこない。


 その時だった。


 ――パンッ!


 乾いた破裂音が、路地に響いた。


 獣人の一人が、まるで木の葉のように吹き飛ばされ、壁に激突して崩れ落ちた。


「……え?」


 状況が飲み込めないまま顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。


 見覚えのある制服。この異質なメルヘン世界には、あまりに不釣り合いな「現実の女子高生」だった。


「まったく、こんなところで弱っちい人間いじめて楽しいの? 性格悪いんだから!」


 彼女はそう言い放つと、迷いのない足取りで俺の前に立ちはだかった。


 彼女の瞳には、一切の迷いがない。それは、今の俺には到底手に入れられない、強烈なまでの光だった。

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